歌鳥のブログ『Title-Back』

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【過去作品サルベージ】水族館ごっこ

   水族館ごっこ

 悟志が天国に旅立ったのは、ちょうど二年前のこと。あの日以来、わたしはこの町を訪れたことはなかった。電車で通りかかることはあったけど、それだけ。
 懐かしい駅で電車を降りたのに、これといった理由はなかった。切符は終点まで買ってあったし、車内で読むための本も用意してあったし。ふと本から顔をあげると、電車はこの駅に停車していて……それで、なんとなく降りてしまった。
 都心からはだいぶ離れた、私鉄のちいさな駅。電車を降りたのはほんの5,6人くらい。平日のこの時間は、いつもこんな感じ。自動改札は平然と、わたしの過払いの切符を飲みこんだ。
 階段を降りて、駅前のロータリーに出る。真昼の日差しが、歩道のアスファルトにわたしの影を描いた。12時15分、人通りは意外に多い。近くで働く人たちが、食事に出てきてるんだろう。
 駅前の道路をまたいで、おおきな鳥居が立っている。バスが二台、真下ですれ違えるほどの、おおきな鳥居。近くに神社があるわけでもなくて、古びた鳥居はひどく場違いに見える。どんな由来があるのか、ずっと気になってた。わざわざ調べたりはしなかったけど。
 鳥居のすこし先の喫茶店は、まだちゃんと営業してた。
 もういちど腕時計に目をやって、わたしはうれしくなった。この時間、彼はいつもあの喫茶店で食事してた。ビルの中二階にある、ちいさな喫茶店。階段の途中で立ち止まって、ガラス張りの店内をのぞいてみた。
 ――いるいる。いつもの窓際の席。いつものサンドイッチを食べながら、いつものミルクティーを飲んでる。右手でティーカップを、左手で文庫本を支えて、開いた本に鼻を埋めるみたいにして。すこし乱れた髪も、しわだらけのスーツも、あのころとちっとも変わってない。
 階段をのぼりきって、ガラスの扉で髪型を整える。ゆっくり深呼吸してから、ドアを押し開けた。
 白髪頭のマスターが「いらっしゃいませ」と声をかけてくれた。彼は本に顔を埋めたまま。近くに寄って、向かいの椅子に座った。
「悟志」
 ようやく彼は顔をあげた。わたしを見てびっくりしてる。左手の本にしおりをはさんで、ゆっくりとテーブルに置いた。
「……レイちゃん」
「ひさしぶり」
「あ……うん」
 わたしは吹き出してしまった。彼はぷっと頬をふくらませた。
「なんだよ。いきなり顔見せたと思ったら、人の顔見ていきなり笑いだして」
「……ごめん」
 わたしは必死に笑いをかみ潰して、滲んだ涙を指先でぬぐった。笑いの発作がおさまるのを、彼は辛抱強く待っていた。
「ごめん」ようやく落ちついてから、わたし。「だって、さっきの顔。目まんまるにして、口ぽかんとあけちゃって」
「いや、実際目を疑ったよ」
 彼は機嫌をなおしたみたい。子供みたいな照れ笑いをうかべて、
「ずいぶんひさしぶりじゃない。三年ぶりかな?」
「二年よ」
「十年くらいたった気がするなあ」
「わたしは二、三ヶ月くらいな気がする」
 水のはいったグラスを手に、マスターが歩いてきた。お昼どきだったけど、なにか食べる気にはなれない。レモンティーを注文したら、マスターはカウンターのうしろへ戻っていった。ちょっと首をかたむけた、独特の歩きかたで。
「変わってないね、ここ」
「うん」と彼。「あいかわらずコーヒーはまずいし、あいかわらず客はすくないし」
 ちょっと顔をあげて、お店のなかを見まわしてみた。お客がぜんぜんいないわけではないけど、お昼のこの時間に空席があるお店は、この近くではここだけだろう。そう広くもない店内、埋まっている席は半分くらい。
「けど、ホットサンドはうまいよ。あいかわらず」
 サンドイッチをひとくちかじって、おどけてみせる悟志。――変わってないのは、このお店だけじゃないみたい。
「……けど、なんで急に?」
 口元の笑みはそのまま、眼差しだけは真剣にわたしを見る悟志。わたしはちょっと考えてから、答えた。
「さあ。たまたまここを通りかかって、急に降りてみたくなって。ちょうどお昼だったし、もしかしたら悟志に会えるかもしれない、って思って」
「それで?」
 彼はいたずらっぽく首をかしげて、
「どうかな、ひさしぶりに会った感想は?」
「それがね、」わたしもつられて首をかしげた。「変なの。ちっともひさしぶりに会った気がしなくって。なんだか昨日も会ってたみたいな気がしちゃって」
「なんだよ」彼はがっかりしたみたいだった。「さっきは二、三ヶ月で、こんどは昨日か。前よりも頻繁に会ってるみたいだね」
「そうかも」わたしはくすくす笑った。
 ──二年前のあの頃は、週に一度か二度会うのがやっとだった。毎週末には、どちらかが一方の家に泊まった。そして平日には、わたしが仕事でこの駅を通る日にしか会えなかった。わたしが途中下車して、このお店で待ち合わせて、いっしょにお昼を食べる。それだけ。
 ただそれだけの時間が、わたしには最高のお昼休みだった。
「だって、いつでも思い出してたもの。毎日」と、わたし。「この二年間、悟志のこと考えない日はなかったわ」
 悟志はちょっと顔を伏せて、とまどったような目だけをあげてわたしを見た。
「あやまったほうが、いいのかな?」
「そうよ」わたしはにっこりした。「あやまんなさい」
 彼がなにか答えようとしたとき、マスターがティーカップの載ったトレイを持ってきた。それで……なんとなく気まずくなって、ふたりとも黙ってしまった。
 カップはほんのりと湯気をたてていた。レモンを入れて、スプーンでかきまわす。紅茶の色がほんのちょっと変化する様子をしばらく眺めてから、レモンをスプーンですくいあげた。すこし色の薄くなったレモンを、スプーンといっしょにお皿のはしっこに置く。紅茶は苦くて、酸っぱくて、いい匂いがした。
 ――はじめてこのお店に来たときのこと、ふと思いだした。知り合って間もなく、彼もわたしも社会人になりたての、あの日のこと。鳥居をくぐってすぐのお店、来ればすぐにわかるよ、でも「コーヒーだけは飲んじゃだめだ」って、悟志に何度も念を押されたっけ。
 彼よりもちょっと早く着いたわたしは、思いきってコーヒーを頼んでみた。そして……遅れてきた彼が注文した紅茶を、半分わけてもらった。
 さっきのわたしの言葉を気にしてるみたい、顔を伏せたままの悟志。サンドイッチを食べるでもなく、紅茶を飲むでもなく。ただ、カップの中身に目線を落としてる。
 視線のやり場に困って、わたしは窓のほうに顔をむけた。
 この席からだと、外の歩道を行き過ぎる人と、歩道に落ちる影がはっきり見える。いまはお昼休み。ほかの時間帯より、人通りが多い。
「ね、悟志」
 窓の外を指さして、彼の注意をひく。悟志は顔をあげて、窓の下を歩いているおじさんに目線をうつした。スーツ姿のそのおじさんをじっと見つめてから、期待のこもった目をわたしにむけた。
 わたしの口にした魚の名前に、悟志は満足しなかったみたい。あらためて窓の外に顔を向けると、おじさんが通りすぎるのをだまって見つめてから、ゆっくりと口を開いた。
「そんなに怖くないわよ」わたしは反論した。「愛嬌のある顔してたじゃない。目ちっちゃくて、丸くって」
ウツボだって、案外かわいい目してるよ」
「だめ。口が怖いもん」
「オコゼのほうが怖いって。あのトゲトゲ」
「あれは……アクセサリーだもん」
 議論は熱を帯びてきたけど、もちろん本気じゃない。悟志の目は笑ってる。わたしの目も、きっと同じ。
「じゃあ……」
 悟志は窓に顔をむけて、通りを歩いている着飾った若い女性を指した。
「あの人は?」
ヒメアイゴ」わたしは即答した。
「ヒフキアイゴ」と彼。
 わたしは首をかしげた。「そんな魚いた?」
「いるよ」
「いないわよ」
「いるって。調べてみなよ」
ヒメアイゴとどう違うの?」
「火を吹くんだ」
 わたしは笑いだした。「うそぉ」
「本当だって」悟志も笑いをこらえている。肩が震えていた。
 ――心底くだらない遊びだった。水族館ごっこ。喫茶店の窓を水槽に見たてて、外を通りかかるるひとを魚にたとえる。ふたりが納得すれば勝ち、意見があわなければ負け。ふたり同時に勝ったり負けたりするわけで、決して勝負はつかない。
 ここで食事をするときは必ず、わたしたちはこの遊びをしていた。なぜか、ほかの場所でこの遊びをしたことはない。道を歩いていて、すれちがう人を魚にたとえるようなことは一度もなかった。このお店でだけ。理由はわからないけど。
「本当に火を吹くのね、ヒフキアイゴ」わたしは笑いがとまらない。「ちゃんと調べておくわよ。もし火を吹かなかったら、次に会うとき、なにかおごってもらうから」
「ああ、いいよ」悟志はにっこりして、こくん、とうなずいた。
”次に会うとき”なんてない。悟志もそれはわかっていたはず。でも、ふたりとも、そんなことは気がつかないふりをしていた。
「じゃ、最後ね」わたしは窓の外を指さして、「あの人」
 わたしが選んだのは、やっぱりスーツ姿のおじさん。さっきの人とはずいぶん雰囲気がちがう。ちいさな体をひょこひょこさせて、すべるような、浮いているような、ゆらゆらとした足取りで歩いてくる。まっすぐ前を向いてはいるけど、どこかの空中を見ているみたいな目つき。唇にはかすかに笑みが漂っていて、どこか、なんだか、うれしそう。
ミズクラゲ」すこしも考えずに、悟志はこたえた。
「うん」わたしはうなずく。「ミズクラゲ
 通りをふわふわと遠ざかっていくおじさんを、わたしたちは顔をよせて見送った。とってもすてきな、とっても幸せそうなおじさんだった。
「幸せそうね」とわたし。
「うん」と彼。
 悟志はサンドイッチの最後のひと口をほおばってから、わたしに視線をむけた。
「レイは……いま幸せ?」
「ううん」わたしはかぶりをふった。「悟志のことずっと考えてたら、幸せになんてなれないよ」
「そうか……そうだよな」
 悟志は唇を噛んで、視線をさまよわせた。冷めた紅茶をひと口すすってから、
「けど……やっぱ、レイには幸せになってほしいよ」
 わたしはにっこりした。「そう?」
「当たり前だろ」
 悟志は子供みたいに、力いっぱいうなずいた。
「幸せになってくれなきゃ、困るよ」
「……そうね」わたしはつぶやいた。「そうよね」
 ――わたしにとっての、幸せ。
 お互いに仕事が忙しくって、会えるのは週末と、たまのお昼休みだけ。でも、その時間が、わたしにはとっても大切で、とっても愛おしくって。
 わたしが幸せだったのは、悟志といっしょの時。この店でこうして向かいあっている時間が、わたしにとっての幸せそのものだった。
 でも──それは今日までのこと。今日、このお店を出たら、もう二度とこの幸せは味わえない。味わってはいけない。
「わたし……幸せになりたくない」
 悟志はびっくりしたみたいだった。わたしを見つめたまま、声もだせない。
 わたしはにっこりしてみせた。
「幸せになんて、なりたくない。ならなくていい。このままでいるわ、ずっと、いつまでも」
 あくまで冗談めかして、しっかりと微笑みもそえて。――でも、それはわたしの本心だった。冗談なんかじゃなく、本音だった。
 そのことは悟志も気づいてた。哀しげな目でわたしを見て、
「レイちゃん……怒るよ」
「ごめん」
 ちくり、と胸が痛んだ。笑顔でごまかして、視線をそらした。
 壁の時計が目に入った。いつのまにか、ずいぶん時間がたってしまっていた。お昼休みも、もうすぐ終わり。
 悟志はわたしの視線を追って、壁の時計を見あげた。それから腕時計に目をおとして、
「そろそろ、戻らなきゃ」
「うん」わたしは立ちあがった。
 わたしの紅茶は半分も減っていなかった。それぞれの伝票を持って、無言で支払いをすませた。出口を抜けるあいだ、悟志は扉を押さえてくれてた。
 階段を降りる途中で、わたしは思いきってふりかえった。「悟志」
「ん?」
 すこしの沈黙のあいだ、悟志は辛抱づよく待っていてくれた。わたしの言葉を。わたしは思いっきり息を吸いこんで、
「わたし、幸せになる」
「……ん」悟志は静かにうなずいた。やわらかい微笑をたたえた、おだやかな表情で。
「だから……安心して」
「ん」悟志は静かにうなずいた。
 一歩ずつ、ゆっくり階段を降りたけど、すぐに歩道についてしまった。手を握ったりしてはいけない気がしたから、ちいさく手を振るだけにした。彼も手を振りかえして、
「じゃ」「うん」
 背を向けた。歩きはじめる。わたしは駅のほうへ。彼は反対の、どこかべつの方向へ。
 うしろは振りむかなかった。駅のトイレでしばらく泣いてから、お化粧をなおしてホームに降りた。ちょうどやってきた電車に、あわてて飛び乗った。
 わたしの再会――悲しくて滑稽な、そこにはいない人との再会が、こうして終わった。



 過去作です。最初の1行にオチがあるという、画期的(だと自分では思っている)作品。
 とある駅周辺をモデルにして書きました。今その駅は様変わりして、鳥居もなくなっちゃいました。喫茶店のオーナーは今どうしてるんでしょうか。あ、コーヒーはおいしかったです。