歌鳥のブログ『Title-Back』

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【過去作品サルベージ】動物園にて

   動物園にて

 顔つきだけ見れば、その動物は犬と猫のあいのこみたいに見える。大きさもちょうどそのくらい、大型の犬よりは小さく、大人の猫よりは大きい。肩から伸びる翼を広げると、ぼくの両腕を伸ばしたのとおなじくらいの長さになる。けど、彼が翼を広げたところを見たことは一度しかない。
 毛色はほんのすこし茶色がかった白。背中はほとんど茶色に近い。後ろ足はすこし青みがかって見えるけど、前足はいつでもうす汚れている。翼にはえた羽毛は、背中の毛とおなじ色だ。
 瞳は黒い。まるで人間の瞳みたいに。その瞳はいつでも哀しそうに光っていて、それが彼をことさら神秘的に見せている。
 彼には名前がない。個体としての名前も、種の名前も。発見されたのは一匹だけだから、個体としての名前をつけることに必然性はなかった。種族の名前は、まえに学者のひとがなんとかって名前をつけたけれど、むずかしいラテン語だったから、みんな覚えていない。
 さっきからぼくは『彼』と言っているけれど、実のところ、この動物が雄なのか雌なのかもわからない。一匹しかいないのだから、性別を調べるのも無意味だった。飼育係のぼくとしては、彼がなにを食べて、いつ眠るのか、どこで健康状態を見分ければいいのか、それがわかれば充分だった。
 けど――実をいえば、ぼくはそれすらも知らない。
 ここに来てからひと月あまり、彼はなにも食べていない。毎日餌を与えてはいるけれど、肉も魚も野菜も、彼は口にしようとしない。日に一度か二度、思い出したように水を飲む。それだけ。上司に言われるまま、ぼくは毎日彼に栄養剤を注射しているけれど、効果があるとは思えない。
 彼がいつ眠っているのか、ぼくは知らない。昼間はいつも檻のすみのほうにうずくまっている。夜になって、お客さんの姿が見えなくなると、檻の手前に来て月の光をあびることもある。
 けど、いつ見に来ても、彼は眠ってはいない。ただじっとうずくまって、自分の前足をかじっている。
 ぼくの恋人は彼を「気持ちわるい」と言った。
「なんだか気味が悪いわ。黙ってこっち見てるだけなんだもん。なに考えてるかわかんない」
 彼がなにを考えているのかは、ぼくにもわからない。もし彼が人間のことばを話せたとしても、きっと彼はなにもしゃべってはくれないだろう。彼の声はすごくきれいなんだけど。
「それにあの足。なんとかならないの」
 ぼくだって、なんとかしたいと思っている。なんとかしてやりたいと、いつも思っている。そして、そのためにいろんなことを試してみて、いつだって失敗している。
 いつだって、彼の前足は血まみれだ。彼が自分で前足にかみついて、傷つけてしまうんだ。
 飽きることなく、彼は毎日それをつづけている。片方の足が穴だらけになって、血の勢いがなくなりかけると、彼はもう一方の足に牙をたてる。以前の傷がかさぶたになったころ、またそこにかみついて、ふさがりかけた傷口をもういちど傷つける。そうやって、彼は毎日を過ごしている。
 この癖をやめさせようと、ぼくと仲間はいろいろと試してみた。両方の前足を包帯でぐるぐる巻きにしたら、彼は包帯ごと皮膚を食いちぎってしまった。ロープで顎をしばりつけたときには、彼はめちゃめちゃに暴れて、手のつけようがなくなってしまった。そのままだと大けがをさせてしまうから、しかたなくぼくらはロープを解いた。彼は安心したように前足に牙をたてて、それを今日までつづけている。
 こんなことをつづけていて、彼が健康なはずはない。このひと月で、彼の体重は半分に減った。水しか飲まずに、毎日血を流しているのだから、それも当然だ。
 ぼくは毎日、彼のからだを洗ってやる。血まみれの前足もいっしょにだ。ホースで前足に水をかけると、彼は気持ちよさそうに目を細める。これが僕にしてやれることのすべてだ。
 ほかにできることは、ぼくにはなにもない。
 ――一度だけ、ちがう方法を試したことがある。ある日の深夜、だれもいないときを見計らって、ぼくは檻の鍵をあけて、彼を外に出そうとした。翼にはまだ力が残っているから、飛んで逃げようと思えばできるはずだ。ぼくはそう思った。
 けれど、彼はそうしようとはしなかった。ただぼくをみつめて、ふしぎそうに首をかしげるだけだった。まるで、そこに開いている扉が目に入らないように。すぐそこにある自由が、なんなのか理解できないみたいに。
 いくら背中を押しても、彼は動こうとしなかった。しかたなく扉を閉じると、彼は安心したように、また前足に歯をたてた。
 彼はなにもしゃべらないけれど、そのとき彼はひとつだけ、ぼくに教えてくれた。ぼくの無力さを。なにもできない、ぼくがなんの力も持っていないということを、彼は教えてくれた。
 そして今日も、ぼくは彼のからだを洗ってやる。ぼくができる、ただひとつのこと。
 やさしいね、とぼくの恋人は言う。いつ死ぬかわからない動物、いまにも死にそうな動物に、そんなに優しくしてあげるなんて、と。
 ぼくは自分が優しいなどとは思っていない。ぼくは自分がやりたいことをやってるだけ。本当にやりたいことができないから、すこしでもそれに近いことをやってる。それだけだ。
 ぼくたちは婚約している。けど、彼女にはしばらく待ってもらわなくてはならないだろう。彼の世話をしているあいだは、ぼくには幸せな結婚なんてできない。幸せな気分になんて、なれっこない。
 それに、もし彼が死んだら――ぼくは自分で命を絶つつもりだ。こんなちっぽけな命も救えないのなら、ぼくの存在には意味がない。ぼくに生きている価値は、ない。
 客足のとだえる夕暮れどきや、みんなが寝静まった真夜中、彼はときどき、だれにも聞こえないくらい小さな声で、泣く。鳴くんじゃなくて、泣く。そうとしか言いようのない声なんだ。聞いているこっちまで悲しくさせる、かぼそい悲鳴みたいな、泣き声。
 なにをそれほど嘆いているのか、なにがそんなに悲しいのか。どうして、それほど悲しんでいるのに、なにもしようとしないのか。ぼくには理解できない。
 そんな彼を見ていると、どうしようもない苛立ちを感じる。なにもしようとしない彼に対して。なにもできない、ぼくに対して。
 そんな彼を見ていると、どうしようもなく悲しくなってしまう。日に日に弱っていく彼のことを。彼を救ってやれない、ぼくのことを。
 ぼくのそんな気持ちを知りもせず、彼は前足をかじっている。無邪気な眼でぼくを見あげて、かすかに首をかしげる。そのしぐさはまるで、ほら、これがぼくの血だよ、きれいでしょ、とでも言っているみたいだ。
 いっそのこと殺してしまおうか。何度もそう思った。それが彼の望みなんじゃないか、って。
 けど――皮肉なことに、彼の流す血が、ぼくを思いとどまらせている。彼の血が、彼の血の色が、まだぼくは生きている、ほんとうはまだ生きたいんだって、訴えかけているように思えるんだ。
 彼の血の色。不自然な動物には似合わない、ごく自然な色。ぼくの血の色とおなじ、鮮やかな赤。


 やっぱり過去作品。これはホラーではないな、うん。
 前のとタイトルが似てるので、自分でも混同します。べつに入れ替えたからって不都合でもないし。うーん。もうちょっとタイトル凝った方がいいですかね。