歌鳥のブログ『Title-Back』

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【過去作品サルベージ】上と下【二殺のゼロ】

   上と下

 忍び笑いを漏らしつつ、ゼロはシックの背を見送った。爬虫人の相棒は、出口の手前でふと立ち止まり、ゼロのいる洞窟の奥をちらりと振りかえった。満月の逆光に照らし出されたその姿は、ゼロの目には異形の影絵として映った。その影絵も一瞬後には失せ、後には満天の星と月明かりのみが残った。
 相棒の姿が消えると同時に、ゼロの薄笑いも途切れた。身内に何らかの感情らしきものが過ぎったが、その正体が何なのか、ゼロには掴めなかった。小さくかぶりを振り、余計な思考を追い払う。
 洞窟の壁に背をもたせ、ゼロは耳を澄ました。兵士達のざわめきは、洞窟の外から途切れることなく聞こえてくる。しばらく待つうちに、ざわめきが突如、恐怖のどよめきに変わった。シックが追手の前に姿を現したのだ。
「我が名はシック。リズ随一の狩人で、並ぶ者無きリズの戦士だ! 我がお袋は怒れる瀑布、親父は狂える獣龍。広いこの世に生み落とされし、如何なる者もこの俺に、敵う筈などありゃしねえ!」
 相棒の声が闇に木霊する。ゼロはくつくつ笑った。あの野郎、今しがた聞いたばかりの口上を真似てやがる。
「命惜しけりゃ尻尾を巻きな。命捨てたきゃかかって来い。研ぎ澄まされしこの爪で、貴様の鎧切り開き、骨の髄まで食い散らしてやる!」
 口上が途切れた後は、追手の怒号と悲鳴、それにシックの狂喜に満ちた笑いが響いた。声は次第に遠ざかる。少なくとも兵の一部は、爬虫人の後を追ったらしい。
 だが──先刻よりは数を減じたものの、洞窟の外のざわめきは今も続いている。
 ゼロは慎重に機を伺い、月が雲に隠れた瞬間、洞窟を飛び出した。

「──我こそはモーブフの将、その名も高きアド・ハイヴィル。一度槍を手にすれば、我が双腕に敵う者無し」
 夜の静けさを打ち破り、堂々たる声が岩山に木霊した。
「追い詰められし盗人よ、命惜しくば名乗り出よ。さもなくば我が無双の槍が、貴様の心臓貫き通す」
「…なんだい、ありゃ」洞窟の入口を顎で示し、シックが小声で呟く。
「はったりさ」ゼロが囁き返す。「声の届く範囲まで迫ってる、って脅しだ。山狩りは面倒だからな、こっちが怯えて動けば発見しやすい、って訳さ。仮に声が届かなくとも、特に害は無いしな」
「下らん脅しだぜ。…にしても」
 爬虫人は苛立った様子で、背中の鱗を岩に擦りつけた。
「気に食わねえな。こそこそ逃げ回るのは性に合わんぜ。追手なんざ蹴散らして、とっとと先に進もうぜ」
「蹴散らす、ね」ゼロは肩をすくめる。「口で言う程、そいつは容易くは無いだろうぜ」
 洞窟に潜る直前、肩越しに振り返った光景を思い出す。遥かに続く岩の斜面。眼下では無数の松明が揺れていた。明るく揺らぐ小さな灯火は、岩山の裾野をぐるりと取り巻き、恐らくは山の反対側まで達しているのだろう。ゼロとシック、たった二人を追い詰める為に。
「ざっと見積もって三百ってとこか」とゼロ。「よくもまあ、あれだけの人数をかき集めたもんだ。モーブフの『組織』、それ程の人員は居ない筈だがな」
「よおよお、聞こえてるかよゼロの旦那ぁ!」
 先刻とは打って変わった、甲高い、品位の欠片も無い声が叫んだ。
「俺はディバイド・アーク、ソニアレイクの支配者だあ。ゼロの旦那よ、覚悟決めて降りて来なあ。その腹抉って、腸引きずり出してやるぜっ!」
「…呆れたもんだぜ」とシック。「今のも『組織』か? 余程の人材不足らしいな」
「ソニアレイクの連中は、『組織』と言っても山賊さ。品格を求めるのは酷だ」
 ゼロが苦笑していると、洞窟の外から第三の声が響いた。
「私はペイフォード騎士団の将、エムバシィだ。『二殺のゼロ』よ、この岩山は包囲した。最早、鼠一匹すら逃れることは出来ぬ。『二殺のゼロ』よ、手間を取らせるな。直ちに投降すれば、速やかな、苦痛の無い死を約束しよう」
「ぎゃはははははっ!」賎しい笑い声が後に続く。
「『組織』の将が三人、てことは兵も三集団、か。あの人数に合点がいくな」
 ゼロは長衣の背から革袋を取り出し、中の水を一口含んだ。夕刻から今まで、追手は一息つく間も与えてはくれなかった。ようやく訪れた束の間の休息に、喉は更なる潤しを要求した。
 ──商業都市ディジーを出て三日。大都市から遠ざかるにつれ、『組織』の追手は減るどころか逆に増えていった。追手を避けて移動を続け、辿りついたのが名も無き岩山だった。
 満月の夜。冷酷なる月光は二人の姿を容赦なく照らした。隠れ場所など無いと思えたが、シックは目敏く洞窟の入口を見つけた。とりあえず身を潜めたものの、これは一時凌ぎの策に過ぎない。
 中は意外な程広く、奥の空気は湿っていた。四つに這い、あちこち嗅ぎ回る相棒を横目に、ゼロは乾いた場所を選んで腰を下ろした。
「…さて。どうするかな」
 思案に暮れるゼロに、シックがにんまりと笑いかける。リズの戦士は、この状況を楽しんでいるらしかった。

 思慮の無い南風が雲を押し流した。月光が降り注ぎ、ゼロの影を大地に刻む。ゼロは手近の岩に身を寄せ、影に身体を押し込めた。近くに気配が無いのを確かめてから、そっと身を乗り出し、周囲を探る。
 目の前に、辛うじて道と呼べそうな二本の筋があった。
 右手方向には、急勾配を登り山頂へ至る道。左へ伸びる今ひとつの道は、切り立った崖沿いを進み、谷間を下りて西へ向かう。何れも狭く、大小の岩が無数に転がってはいるが、移動に際して一応の目安にはなる。
 二筋の道は崖を挟んで並行していた。一方は上へ、他方は下へ。
 上方からはシックのけたたましい笑いが響いてくる。見上げると、無数の松明が揺れて動いていた。早くも囲まれたらしい。あれだけ大声で挑発すれば当然だ。
 だが一方、眼下に揺れる松明もあった。シックの挑発に踊らされず、ゼロの姿のみを捜し求める一群だ。『組織』の標的は飽くまでゼロ。喚き散らす爬虫人ではない。
 月が陰ると同時に、岩陰を飛び出した。シックとは別の道筋、谷間へ向かう左の道へ。
 闇に乗じて移動する。右手には崖、左手は下り斜面。追い詰められれば逃げ場は無いが、崖に背を預けることは可能だ。相棒と別れた今、それは重要な点と言えた。
 眼下の松明は確実に近づきつつある。発見されるか否かは運次第。崖の上からは血も凍る絶叫、そしてシックの熱い咆哮。

 洞窟の外から無数の足音、そして配下に指示を下す将らしき声が聞こえた。足音は徐々に大きくなり、やがて通り過ぎていった。
 どうやら最初の一群はやり過ごせたらしい。だが既に、別のざわめきが近づきつつある。岩山全体が、追手に覆い尽くされているかの様だ。
「なあ、どうするよ」
 奥の暗がりを探っていたシックが、這いずりながら戻ってきた。ゼロの傍らにうずくまり、足で頭を掻く。
「今は真夜中。陽が出てからじゃ、岩山を抜けるのは無理だぜ。逃げ出すにしろ皆殺すにしろ、早いに越したことはねえ」
「…ああ」ゼロは頷く。「判ってるさ」
 月が陰り、周囲を闇が包みこんだ。反射的に剣を抜きかけたが、一瞬後には月明かりが戻り、ゼロは緊張を解いた。外のざわめきはまだ遠い。月光を遮ったのは追手ではなく、黒雲だったらしい。
「シック」徐に口を開く。「この岩山について、何か知ってるか」
「そうさな」
 爬虫人は背を逸らせ、大きく伸びをした。
「それ程大きな山じゃない。ちょっとした散歩気分で、数刻ありゃ登って降りられるぜ。丁度この洞窟を出た辺りに、山頂へ向かう道がある。山を越えて北に進み、ドリィの森へと通じる道だ。そいつと並んでもう一本、そっちは谷へ向かってる。谷底まで降りて川沿いを進めば、フィージーの沼地にぶち当たるぜ」
「流石は博識だ。無駄に二百年生きちゃいないな」
「何度言や判る」シックは激高した。「俺はまだ百八十歳だ」
 ゼロはにやりとした。この抗議を耳にするのは、これで何度目だろうか。
「北と西、二つの道、か。二手に別れるのも手だな。敵さんも困惑するだろうし、闇に紛れるには一人のほうが楽だ」
 尚も興奮の冷めやらぬ表情で、シックはゼロの顔を覗きこんだ。
「道は交差してねえ、すぐそこで分かれたっきりだぜ。別の道を行くってんなら、合流するのはずっと先だ」
「…それも良いさ」
 ゼロは相棒の、人とは異なる瞳をひたと見据えた。
「すぐそこで分かれたっきり、ってのも、一つの手だろうさ」

 岩陰から岩陰へ。飛び石を渡る様に──或いは、水に潜った者が水面に出て息を継ぐ様に。ゼロは点在する岩の影に身を隠し、月の光を避けつつ進んだ。
 今のゼロには、光は忌むべき存在だった。天に煩わしい満月。眼下に無数の松明。
 首筋に冷たいものが当たった。ゼロは岩陰から身を起こし、頭上を見上げた。数粒の水滴がゼロの額に落ちた。
 ──時折天を行き過ぎる雲は、雨雲とは違う。この水滴は雨ではない。シックが水霊イーチェの加護を求め、能力を発現させた、その余波だ。
 水霊の加護はシックに苦役を強いる。絶対の危機に陥らぬ限り、シックはこの技を使わない。
「物足りねえなあ、『組織』の雑魚共よ! もっと本腰入れて来なっ!」
 掠れた声が頭上で叫んだ。崖の上の状況は、ゼロの位置からは見て取れない。ゼロは奥歯を噛み締めた。
 月明かりに影が生じた。その方角に目を転じると、月光を遮ったのは一人の男の姿だった。
 崖の上、大きく迫り出した岩の頂点に男は立っている。逆光で顔は見えない。だが洗練された動作と風格は、遠目からでも見て取れた。『組織』の下級兵とは、明らかに一線を画している。
 男の手にする燃え盛る物体は、松明ではなく槍。柄の根元から穂先に至るまで、全体が深紅の炎を纏っている。驚嘆すべきは、炎を上げる柄を素手で握る男が、何ら苦痛を感じていないらしい点だ。
 炎の使い手。恐らくはあの人影が、モーブフの将アド・ハイヴィル。
「未だ足りねえ…もっとだ、もっと殺させてくれよ!」
 シックの高笑いが崖上より降り注ぐ。我が相棒は、モーブフの将の存在に気づいていない様だ。ハイヴィルは紅蓮の槍を頭上に振り上げ、今にも投げ放とうという動きを見せる。
 ──水霊の加護を受けたリズにとって、炎の神ゼノンは不倶戴天の存在だ。炎の能力を有する者は、まともに向き合うも危険な相手。まして不意打ちとなれば──。
 ゼロは自分と相手との距離を推し量った。得物を投げて効果のある距離ではない──まともな得物ならば。
「…世話が焼けるな」
 思い悩む時間は無かった。ゼロは岩陰を飛び出すと、頭上のハイヴィルへ向けて《何者》を放った。青白い軌跡を描いた後、魔剣は将の背に突き立った。ハイヴィルの口から絶叫が漏れ、紅蓮の槍は手からこぼれ落ちた。
「…」
 頭上の哄笑が途切れた──かに思えたが、一瞬後には更なる大笑が降りかかってきた。
「ったく、大した相棒だぜ。なあっ!?」
 掠れた声が叫ぶ。粗雑な賛辞にゼロは苦笑したが、その表情は途中で凍りついた。
 眼下の松明が、一斉に方向を転じた。敵を求めて無秩序に漂っていた灯火が、餌を目にした魚の如く、一点に向かいつつあった。即ち、ゼロの居る一点に。
《何者》の描いた軌跡が、追手の目を集めたのだ。ゼロは舌打ちした。相棒を救う為の行動だったが、その相棒は遥か頭上におり、そして──
 ──そして《何者》もまた、今はゼロの手元を離れている。

 シックはゼロの胸倉を掴んで立ち上がらせた。片方の爪で長衣を引き千切らんばかりに捩じ上げ、もう片方の爪はゼロの眼前、今しも目玉を抉り取ろうとするかの様に閃く。
 日中は針の如くに細い爬虫人の瞳は、今は大きく膨張している。人のものとは似ても似つかぬその瞳で、シックは人間の相棒の瞳を覗きこんだ。
「…どういう意味だ、そいつは、よ?」
 爬虫人の脅しにもゼロは平然としている。殊更抵抗する素振りも見せない。
「言った通りの意味さ」
「てめえ、俺を切り捨てようってのかよ。俺はお役御免って事か?」
「そうは言ってない」
 シックは唐突にゼロの身体を手放すと、跳び退って洞窟の奥にうずくまった。ぐるぐると喉を鳴らしつつ、搾り出す様な声で問う。「説明しやがれ」
「俺とお前、離れて行動する利点は幾つかある。一つは単純、夜に紛れてこの場を切り抜けようって腹なら、一人の方が身軽だ。万一発見されても、二人の筈が一人しかいなけりゃ、敵も混乱するだろうしな」
 説明しながら、ゼロは服の埃を払い腰を下ろした。シックは地面に丸くなった不自然な姿勢のまま、じっとゼロを見上げ続けている。
「だが…追手を完全に振り切るには、それだけじゃ不十分だ。覚えてるだろ、ディジーの酒場で会った男を」
 シックは面白くもなさそうな顔で頷く。
「俺の匂いを追って来た、とかぬかしてたな」
「匂いに限らず、俺達を追跡する手段は幾つもある。『組織』の内幾つかは、遠視能力を持つ魔道師を抱えてる。魔力を飛ばして対象を探り、居場所を捉えるのが役目だ」
「…畜生が」
「お前言ってたろ。どっかから見られてる気がする、ってな」
 その視線はゼロも感じていた。ディジーの酒場で使者を迎えてからというもの、奇妙な目線を背に覚えないことは一瞬たりとてない。
「遠視の対象には独自性が必要だ。この世に同じ物が幾つもあっちゃ、どれが本物か区別つかんからな。つまりな、問題は俺達の持つ独自性、唯一無二性さ」
「ああ、そうかよ」
 大声で毒づき、シックはごろりと横に転がった。仰向けに寝そべり、身をくねらせる。
「皆まで言うなよ。この俺が個性的過ぎる、そう言いてえんだろ。なんせ俺は、この世に残った只一人のリズだからな」
「そう、可能性の一つがお前さ」ゼロは頷く。「リズの生き残り。そいつを魔力で検索かけりゃ、一発で居場所は知れるだろうさ」
「糞が」シックは毒づき、目だけをぎろりと動かしゼロを睨んだ。「で、もう一つの可能性ってのは?」
「《何者》さ」ゼロは苦い笑みを浮かべた。「俺の魔剣も、他にゃ存在しない独自の物だ。多分、な。俺もその正体は知らんから、確かな事は言えんがな」
「…ふん」呟いて、シックはむくりと起き上がった。相棒に向き直るその瞳に、理解の色が浮かんでいる。「成程な」
「お前自身と、俺の剣。追われているのはどっちか、そいつを見極めたいのさ。こうも追手に付き纏われたんじゃ、おちおち寝ても居られん。『組織』の手の内を探って、出来る事なら追跡を逃れたい」
 ゼロは腰の柄に指を滑らせた。毒の華に触れるが如き、慎重な手つきで。
「判ったろ。離れて動く利点が、な」

 最初の一人は愚かにも、ゼロの元へ辿り着くことしか頭になかったらしい。顔を上げもせずに岩山を登ってきた兵士を、ゼロは一刀の下に斬り捨てた。松明を蹴り飛ばし、使われる機会の無かった剣を奪う。
 長剣を手にするのは久々だ。敵の懐に潜るゼロの戦術は、短剣こそが相応しい。──だが贅沢を言える立場では無かった。奪った長剣を右の手に、《キス・オブ・ライフ》を左手に握る。
 感触を確かめる暇すら無く、次なる追手が迫った。右の長剣を振るって距離を保ちつつ、隙を見て短剣を突き出す。崖を背にした、無様な戦術だ。『二殺』の業を披露する余裕など、欠片も存在しなかった。
 不用意に近づいた一人を、長剣で袈裟斬りにする。刃は革鎧の表面を空しく掠めた。
「…鈍かっ」
 ゼロは舌打ちし、鎧に生じた微かな傷へ《キス・オブ・ライフ》の切っ先を捻じ込んだ。やはり頼りは己の短剣、鈍は牽制のみに専念しろ、そう心に書き留める。
「ひゃははははははっ!」
 戦場には場違いな、狂気を孕んだ笑いが響いた。シックではない。声が高過ぎるし、近過ぎる。
 異様な気配に身を沈めた瞬間、頭上を何かが跳び過ぎた。頭髪を掠めた刃を、ゼロは戦慄の思いで凝視した。男は着地と同時に向き直り、歯を剥き出してにたりと笑う。
「やっとだ…。やっと、あんたの腹を抉れるぜ、ゼロの旦那ぁ!」
 ディバイド・アークの得物は、両手首の内側に伸びた四本の爪。手袋や留め具の類は一切無く、どうやら腕から直接生えているらしい。四つに這いつつずるずると迫る動き、顔にへばりついた不気味な笑みは、懐かしの我が相棒を連想させる。が、シックと決定的に違うのは、動作の全てが下劣極まりないという点だ。手足は痙攣した様に震え、終始笑みを絶やさぬ口からは涎すら垂れている。こいつと比較すれば、シックは紳士と言えた。
 アークは爪で地面を抉り、小石の幾つかを跳ね飛ばした。ゼロは長剣の腹で小石を弾き、《キス・オブ・ライフ》で迎え撃つ。切先が届く寸前でアークは跳び退り、耳障りな嘲りの声を発した。涎の糸が地面に達する。ゼロは嫌悪に表情を歪めた。
 腰を低く屈め、アークはずるりと近づく。ゼロは慎重に距離を置く。周囲を取り巻く兵は松明を手に見守るばかりで、決してアークに加勢しようとはしなかった。爪の巻き添えになるのを恐れているのだろう。──人望も理性も持たぬ男に、よく『組織』の将が務まるものだ。
 ゼロはじりじりと後退る。崖に背を付くまであと数歩という時点で、アークが仕掛けた。地を這う程の低い姿勢で一息に間を詰め、両の爪で脛を狙う。ゼロはアークの背を飛び越した。アークはゼロの背後の大岩を足場に、ゼロの更に高みへと跳んだ。
 飛翔する猫の如くに、アークは空中で器用に姿勢を変えた。ゼロは戦慄した。アークの爪の先が、ゼロの額に向けられている。落下の途上にあるあるゼロに、四本の爪を避ける術は無い。
 ゼロは着地を捨て、同時に《キス・オブ・ライフ》も捨てた。強引に身体を捻じ曲げ、長剣を上方へ差し向ける。猛烈な勢いで地面に背を打ちつけ、瞬間呼吸が止まった。が、両手は長剣の柄を握り締めたまま。
 そこへアークが飛び込んだ。長剣の切先が、アークの腹を歓迎した。
「…」
 腹部を刺し貫かれてもなお、アークは品の無い笑みを絶やさなかった。涎が糸を引いて流れ、爪の一本を伝い、際どいところでゼロの耳を掠めた
 四本の爪もまた、際どい位置にあった。アークの身体は宙で、ゼロの突き出した長剣のみに支えられている。あとほんの僅か、剣が深く突き刺さっていれば、アークの爪はゼロの額に届いていただろう。
 ──鈍が幸いしたな。ゼロは内心呟いた。

「けど…けど、よ」
 シックは納得の行かぬ様子だった。洞窟の隅にうずくまり、幾度も頭を左右に振りながら、必死に言葉を探している。
「だがな、そいつを確かめる手、他にもあるんじゃねえのか。追手の一人をとっつかまえて絞り上げる、とかよ」
「やってみたさ。昨夜、既にな」
「…何時の事だ、そりゃ?」
「お前が飯食ってる間に、さ」
 昨夜は道無き草原を夜通し歩いた。夜半過ぎに襲撃を受け、疲弊しつつも騎馬の小集団を退けた。うち一人は暫しの間、微かな呻きを発していたが、シックが馬を平らげ終える頃には息絶えていた。
「俺達の居場所は封書で知らされたそうだ。恐らくは、何処かの『組織』の何者かが、送って寄越したんだろうぜ。何を頼りに俺達の居所を探ったか、そこらの雑魚に訊いても無駄さ。封書の送り主にでも訊かない限り、な」
「畜生が」
 シックは頭をのけぞらせ、洞窟の壁に頭を打ちつけた。苛立たしげに首を振り、怒りに満ちた瞳をゼロに向ける。
「仮に、だ。仮に、連中の追ってるのが俺だとなりゃ、その後どうすんだよ。永遠に俺とは手を切るってのか?」
 ゼロは肩をすくめる。「さあな。その時に考えるさ」
「それが《何者》だったら、どうすんだよ。その剣、手放すか?」
「…その時に考えるさ」
 答えたものの、ゼロの心中は揺らいでいた。《何者》と決別し、その後も『組織』の手を逃れ続けられるか。現状を考えると怪しいものだ。
 そんなゼロの思考を読み取ったが如く、爬虫人は恨み言を口にした。
「畜生が。何だよ、俺はその糞ったれの剣よりも使えねえってのか? この強靭で強大で凶暴なリズの戦士よりも、危なっかしい魔剣の方が頼りになるってのかよ」
「そうは言ってない」ゼロは苦笑した。「お前の方が融通が利く、そういう意味さ」
 突如、洞窟の外から人声が流れこんできた。二人は口を閉ざし、耳をそばだてた。先刻よりは幾分近づいて聞こえたが、まだ多少の猶予はありそうだった。やがて風向きが変わったのか、外のざわめきは途切れ、静寂が戻った。
「…判ったよ」
 シックが徐に口を開いた。ごろりと前転し、背を向けてうずくまる。
「あんたと出会って三年近くか。その顔も見飽きた頃合だな。暫く離れるってのも悪くねえ。──こっちはこっちで、やりてえ事もあるしな。それに、だ」
 首がぐるりと半回転し、ゼロに向き直った。鱗に覆われた己の背中越しに、シックは皮肉に満ちた笑みを投げかけた。
「ついでに言えばな。そもそも、俺はあんたと相棒になった覚えはねえぜ。あんたにくっついてりゃ大勢殺せる、只それだけの理由さ。この年月、共に歩んで来たのは、な」

 アークの屍を傍らに投げ捨てた。鈍の長剣は刺さったまま、だが抜き取る暇は無い。放り捨ててあった《キス・オブ・ライフ》を拾い上げ、崖沿いに移動する。
 危険な将が倒れたのを見て取り、追手は戦意を思い出したらしかった。松明が揺れて集う。岩山の斜面を、ゼロの動きに合わせ移動する。
「こいつは堪らねえ、最高だぜぇ!」
 愉快げな声は真上に聞こえた。姿の見えぬ相棒もまた、ゼロと共に移動している様だ。その声は先刻よりも遠い。ゼロの辿る道は下り、シックの道は上っている。
 ──相棒との距離が離れると同時に、《何者》との距離もまた遠くなってゆく。
 空の左手が疼いた。心細い一方、良い厄介払いだ、との思いもある。
 その思いも長続きはしなかった。前方に回りこんだ追手が行く手を塞ぎ、背後からは別の追手が迫った。普段のゼロにとっては、『二殺』の格好の餌食だ。だが今は…。
 崖を蹴り、横ざまに身を投げ出した。不意をつかれた追手が鉢合わせとなり、一瞬動きを止める。ゼロは立ち上がると同時に走り、油断していた別の兵一人を片付けた。
 その兵の装備はお粗末そのものだった。ありあわせの武具をまとめただけの、いかにも山賊らしい姿。だが胸元には予備の短刀を備えており、ゼロは目敏くそれを見つけた。
 素早く抜き取り、身構える。《キス・オブ・ライフ》を右の手に、奪ったばかりの短刀は左に。大きさも重さも《何者》とほぼ同等、《キス・オブ・ライフ》よりは若干軽く、普段と同様の釣り合いが取れている。
 先程逃れた二人の兵が、気を取り直し再度迫ってきた。辛うじて足並を揃えてはいるが、その動きに統率は無い。所詮、山賊は山賊だ。
 二人の兵の間にゼロは潜り込んだ。両の剣を同時に振るう。身体に馴染んだ、二刀の戦術だ。
 だが『二殺』とまでは行かなかった。左の喉を掻き切るのに気を取られ、右は攻撃を受けるのがせいぜい。右の兵に止めを刺すには、一旦間合いを取り、改めて対峙し直す必要があった。
 兵の喉を裂き、血飛沫を浴びながら、ゼロは思った。──『二殺のゼロ』の名、返上しなきゃならんかもな。

「再会するなら、時と場所を決めにゃならんぜ」
 シックの皮肉な笑みは、未だ口元に漂っている。
「再会する心算があるんなら、だがな」
「今夜は満月だ」とゼロ。「一年後の今日、満月の夜でどうだ。覚書を残すわけにもいかんからな、それなら忘れ難いだろ」
「一年の休業か。出来りゃのんびり過ごしたいもんだぜ」
「場所はお前が決めてくれ。他人に、人間に知られていない場所がいい。リズだけが知る土地、人間が決して近寄らない土地」
「…なら、絶好の地があるぜ。とっておきの場所が、な」
 ずるりと這い寄り、ゼロの間近で腰を下ろす。シックの背を覆う鱗は、洞窟の入口から差し込む月光を受け、不気味に輝いて見えた。
「故郷の村の近くに、森に囲まれた泉がある。水霊の強い影響下にあって、他の生物は滅多に近寄らない。俺達リズの修験場さ。並の人間にゃ近づけないが、あんたなら問題無いだろ」
 ゼロは身を乗り出した。「詳しく話せ」

 最後の山賊を斬り捨てると、束の間の静寂が漂った。
 アークが率いていたソニアレイクの『組織』は皆、死ぬか逃げるかしたらしい。視界の及ぶ範囲に居る松明の持ち手に、山賊らしき人影は皆無。
 残りの追手は皆、一様に同じ鎖帷子。騎士が馬を降りた際の標準装備だ。腰には同じ剣を下げ、同じ歩調で迫り来る。統率された戦士達。ペイフォードの騎士団。
 ゼロは崖に背をもたせた。見たところ、騎士連中が一息に間を詰めてくる様子はない。完全に囲まれてはいるが、暫し呼吸を整える時間はありそうだ。
「どうした雑魚共よ、もう終わりかぁ!?」
 崖の高みからの嘲笑は、更に遠ざかって聞こえた。シックを追っているのは恐らく、モーブフの連中だろう。将を失い、尚も獲物に喰らいつく性根は大したものだ──或いは、シックの挑発が功を奏しているだけかも知れないが。
「お前等、それでも『組織』かよ? この俺様一人すら倒せねえなら、その名を捨てちまうが良いぜぇ!」
 首筋に水滴が降りかかった。──水霊の加護を欲しても尚、爬虫人の相棒は獲物を挑発し続けている。奴の性根も大したものだ。
 月の光が薄らいだ。ゼロは崖の上から意識を戻した。
 松明の列は今、ゼロを中心に半円を描いている。一定の距離を保ち、それ以上近づこうとはしない。その隊列は、ゼロを追い詰めようとする動きではなく、まるで──ゼロを包囲し、逃さぬ事のみが目的の様だ。
 連中は何かを待っている──何を?
 その答えは直ちに知れた。後方より、蹄の音が迫ってくる。ゼロは思わず耳を疑った。この岩山に、蹄。
 背後に向き直る。松明の一部が左右に割れた。その合間を抜けて姿を見せたのは、白馬の騎士だ。
 信じ難い事に、騎士は騎乗のままで岩山の急斜面を登ってきたらしい…が、馬が間近に迫ると、それは容易に信じられる事実となった。
 鼻先から尾、蹄に至るまで、完璧なまでに白き馬。唯一の色彩はその目だ。異様に血走った、炎の如き赤い瞳。長い鬣は風に逆らい、これまた炎の様に揺れて波打っている。
 まともな馬でない事は一目で見て取れた。そして騎乗する男もまた、並の騎士ではあるまい。
 ゼロは唇の端を歪め、壮絶な笑みで騎士を迎えた。あれがペイフォードの騎士団長、エムパシィ。

「おいおい」ゼロは苦笑した。「そんな場所に俺を呼び出そうってのか。五体満足に辿り着けると、本気で思ってるんじゃあるまいな」
「おいおい、珍しく弱気じゃねえか」
 シックはにんまりとする。唇の端が耳にまで達した。
「着くのは無理だと、まさか本気で言ってんじゃねえだろな。『二殺のゼロ』ともあろう男が、よ」
「俺はリズじゃない、只の人間だぜ。話を聞く限りじゃ、人の身で行ける場所とは思えんがな」
「行けるさ」
 シックの顔から笑みが消えた。恐ろしい迄に真剣な瞳で、きっぱりと言い切る。
「並の人間にゃ確かに無理だ。だがな。俺の相棒ならば、この俺様が見込んだ男ならば──『二殺のゼロ』と呼ばれる男なら、きっと辿り着けるさ。約束の地、リズの聖地まで、な」
 ゼロの薄笑いもまた、何処かへ消え去った。リズの鋭い眼差しに暫し見入った後、曖昧に頷く。
「…お前がそう言うんなら、そうかもな」
「決まりだ」
 シックは地面を転げてその場を離れると、立ち上がって洞窟の出口を見やった。
「お互い別の道。俺は上、あんたは下だ。先に出るぜ。連中の狙いはあんただが、俺が姿を見せりゃ追ってくるだろ。最低でも将の一人は惹きつけてやるぜ」
「そいつは有難いな」
「生き延びろよ、相棒」
 肩越しに振り返り、爬虫人はやけに人間臭い目でゼロを見やった。
「俺の見てない場所で死ぬんじゃねえぜ。あんたの死は、俺が見届けてやる。俺はそいつを楽しみに、あんたに張り付いてたんだからな」
 ゼロは肩を竦めた。「そいつも有難いこった」
「あばよ」
 シックはごろりと前転すると、洞窟の外へ向かい這い始めた。と、途中で動きを止め、後転して戻ってきた。
「ついでに言うがな」
「何だ」
「頭にゲのつく下衆野郎、奴には近づくな。ありゃ俺の獲物だ。俺が刻むまで、あんたは手を出すなよ」
「何かと思えば」ゼロはくつくつ笑った。「言われんまでもな、ゲッツァーロに手を出す心算など毛頭無いさ。お前が片付けてくれるんなら、こっちはそれで有難い」
 爬虫人は聞き慣れぬ言語で毒づくと、再度出口へ顔を向けた。が、僅かに首を伸ばしただけで、再びゼロに向き直る。
「もう一つ、言わせてもらうぜ」
「しつこいな」
 ゼロは偽りの苛立ちを口にした。
「この洞窟が見つかれば、一巻の終わりだぜ。そうなる前にとっとと出て行けよ」
「この先一年は縁を切ろうってんだ、聞いても損はしねえぜ」
「止むを得んな」歪んだ笑みを返す。「何の話だ」
 シックは残酷とも言える表情で笑った。顎の先で、ゼロの腰の短剣を示す。
「あんたの愛しい《何者》の話さ」

 見た目の優美さとは裏腹に、白馬はすさまじい殺気を放っている。鼻息は怒気荒く、肉食動物並に歯を剥き出す。今にもゼロを取って食おうか、という勢いだ。
 その手綱を握る騎士は、対照に不気味な程平静だった。造りも見事な鋼の鎧を身に纏い、使い込まれてはいるが切先鋭い槍を携えている。
「ペイフォードの将エムパシィ。噂には聞いてたが、会うのは初めてだったな」
 油断無く身構えつつ、ゼロは口を開いた。無意味な対話で時間を稼ぎ、策を練るのが狙いだったが、その当ては呆気無く崩れた。
「選択しろ。降伏し、苦痛の無い死を迎えるか。若しくは我が愛馬《白詰草》に踏み潰されるか」
 断固とした口調で告げる。兜の下の顔には何の感情も現れてはおらず、怒りや興奮とも無縁の様子だ。この戦いを、只の為すべき業と割り切っているらしかった。
 ゼロは素早く目線を走らせた。二人を囲む松明に動きは無く、完全に傍観の構えだ。この場はゼロとエムパシィ、そしてその乗馬のみの戦場。
「糞喰らえだぜ、ペイフォードの将」
 そう口にした瞬間、エムパシィの槍が突き出された。最初の一撃は容易に退けたものの、荒ぶる馬が蹄を繰り出した。ゼロは顎を蹴り飛ばされ、地面に倒れた。
 ふらつく足を踏みしめ、辛うじて立ち上がる。白馬は更に追い討ちをかけた。月光を浴びた馬体は、自ら光を発しているかの様だ。
 ゼロは横に飛び退いて避け、すれ違いざま馬の喉元に《キス・オブ・ライフ》を叩きつけた。刃は馬の表皮を掠めたのみ、一筋の痕さえ残さない。
 舌を打ち鳴らす。やはりあの馬、並の馬ではない。
 馬が方向を転じる隙に、ゼロは適当な足場を見つけて崖をよじ登った。蹄の届かぬ高みに上がれば、残る脅威はエムパシィの槍のみ。幾分かの勝機を見出せる。
 狭い足場を最大限に活用し、ゼロは両の剣を構えた。──左の剣が軽く、頼りない。《何者》ならば、或いは白馬に通用するのだろうが…。
 眩い輝きを放ちつつ、白馬は再度ゼロに迫る。馬上の騎士は相変わらずの無表情。岩上のゼロを目にしても、眉の一つも動かさない。
 槍の切先を出迎えるべく、ゼロは身を沈め──
「…畜生」
 呟きが口から漏れた。その異様な光景に、思わず棒立ちとなった。
 ゼロの眼前で、白馬は足場を移したのだ。崖下の小道から、崖の壁面へ。
 ほぼ垂直に切り立った崖を、そこが地面であるかの如く、四本の蹄が蹴り削る。白馬は重力に逆らい、完全な横向きのまま、壁面を蹴って駆けていた。その異常な体勢の馬に、エムパシィは平然と跨っている。一切の感情を表に出さぬまま、只平然と。
 白馬が蹄を高々と──ゼロから見れば横方向に──持ち上げた。ゼロは危ういところで飛び退いたものの、体勢を整える暇は無かった。地面に背を打ちつけ、瞬間、視界が白に染まった。余りの衝撃に、両の剣が手からこぼれ落ちる。
 身を起こそうとして、凍りついた。目の前に槍の切先があった。
「君に恨みは無い」
 騎士の名に恥じぬ堂々たる態度で、エムパシィは告げた。
「動かずにいれば、苦しまずに死ねる」
 ゼロは唇を噛んだ。喉をごくりと鳴らし、己の愚かさを呪った。この岩山に騎馬で現れた時点で、馬の能力を悟るべきだった。状況を見誤ったのは、己の過ちだ。
 覚悟の意思を示そうと、ゼロは真横に直立する騎士に微かな笑みを送った。と、その歪めた頬に、何か冷たい感触があった。

 間近で顔を突き合わせる。シックの鋭い眼光にゼロは見入った。冷笑を含んだ言葉とは裏腹に、その目は一片の皮肉も帯びてはいない。
「…《何者》は愛人じゃない、死神だ。こいつがどうした」
「あんたのその剣は、正に諸刃の剣だ。定期的に目覚めてあんたを襲う。そいつを手放すも地獄、持ち歩くのも地獄だ。だろ」
「言われんでも判ってるさ」苛立ちに語気を荒げる。「何が言いたい」
「《何者》の目覚める瞬間、あんたはまるで無防備だ」
  噛んで含める如くにシックは告げた。努めて平静を保とうと、己に言い聞かせている様だった。
「爺と向き合う時を狙えば、あんたを殺すなど簡単さ。そこらの餓鬼にでも出来るぜ。それも剣や槍じゃなく、石ころ一つで、な」
「…それがどうした」
「つまりは、だ」
 つと顔を背け、爬虫人は立ち上がった。鱗の背を向け、肩越しにゼロを見やった。
「あんたにゃ、相棒が不可欠だって事さ」
「…ふん」ゼロは苦笑交じりに鼻を鳴らした。「成程な」
「《何者》とやり合う間、あんたの背を守る者が必要なのさ。俺と別行動を取るってんなら、別の相棒を探す事だ」
「忠告ありがとよ」
 相棒の意外な態度に、ゼロは含み笑いを禁じ得なかった。シックがゼロの身を案じるなど、思いもよらぬ事だった。
「その忠告、素直に貰っとくぜ。心当たりが無い訳じゃない、何処かで新しい相棒を拾って、そいつに背を任せるさ」
「けっ」
 シックは面白くもないといった表情で、洞窟の出口へと向かった。月光の下へ踏み出す直前、ふと足を止め、
「ついでに言うがな」
 振り向きもせずに告げる。ゼロは眉を寄せた。
「まだ何か用か?」
「あんたの相棒、並の人間にゃ務まらんぜ。そのお粗末な頭に、こいつを叩き込んでおく事だ」
 一旦間を置く。再び口を開いた時には、その口調はすっかり柔らかなものとなっていた。
「忘れるんじゃねえぜ。あんたの相棒に相応しいのは、この世に只一人──」
 言葉は途中で途切れた。ゼロは束の間、呆気に取られていたが、やがてその肩が細かに震え始めた。シックが洞窟を去る直前、堪え切れなくなった笑いが口から漏れた。
「ったく──」掠れ声で呟く。「──惚れられたもんだぜ」

「…ふふ」
 その瞬間、絶望の縁で浮かべた微笑が、勝利の笑いに取って代わった。指先で頬に触れる。冷たく、湿った感触があった。
「くく…っ、くくくく…」
「狂ったか」とエムパシィ。「それも良かろう」
 切り立った崖に直立する白馬。その鞍上より、エムパシィは冷たい視線を投げかけてきた。平静な面持ちを崩す事無く、手にした槍を頭上に差し上げる。
 不意に月が陰った。
 エムパシィが顔を上げるより早く、巨大な何かが落下してきた。物体はエムパシィの背に激突し、騎士を巻き添えに地上へ激突した。首の骨の折れる、嫌な音が響いた。
 驚いた白馬が甲高く嘶いた。垂直の崖に後足で立ち、首を激しく振り動かす。
 その隙にゼロは立ち上がり、エムパシィの死体に駆け寄った。落下した物体から何かを掴み取り、左手を一閃させる。
 青白く輝きを放つ《何者》の刃が、白馬の胴を薙ぎ払った。馬はけたたましい悲鳴を上げたかと思うと、重力の釣合いを崩し、地面に崩れ落ちた。断崖の地面では無く、本来の地面に。赤く燃え盛っていた瞳が、見る間に輝きを失ってゆく。
 周囲を取り巻く松明が、大きく揺れ動いた。動揺しているのだ。
「…ふふっ…」
 尚も含み笑いを漏らしつつ、ゼロはエムパシィの屍に向き直った。あらぬ角度に首を捻じ曲げたエムパシィの上に、今一つの屍が覆いかぶさっている。
 モーブフの将、ハイヴィル。その屍がエムパシィに直撃し、ゼロを救ったのだ。ご丁寧にも、その背に魔剣を残したまま。
 遥かな高みより、耳障りな笑い声が響く。ゼロは頭上を見上げた。崖の上に姿は見えないが、そこに居る者が誰かは充分承知していた。
「全くだ」声を張り上げる。「全く、大した相棒だぜ」
「はっははははははぁっ!」掠れた笑い声が応じた。
 ゼロは三体の屍──人間二つ、馬一つ──に背を向けた。周囲を見回し、戦闘の最中に取り落とした剣を探す。山賊より奪い取った短刀には目もくれず、使い慣れた己の剣のみを拾い上げる。
 そしてゼロは立ち上がった。愛剣《キス・オブ・ライフ》を右の手に、魔剣《何者》を左手に握り。
「俺の名はゼロ。『二殺のゼロ』だ」
 距離を置いて蠢く松明へ向け、ゼロは叫んだ。その口元に、歪んだ笑みを貼り付けたまま。
「幾度もの仕事をこなし、幾人もの喉を掻き切った男、それが俺だ。大人しく道を開けるがいい。さもなけりゃ、二人ずつ順番にあの世送りだ」
 ──半円を描く松明の群れは、暫しの間不安げに揺れていた。が、やがてゼロの行く手から退き、一塊となって遠ざかっていった。
 ゼロはふっと吐息を漏らした。肩の力を抜き、両の剣を収める。
 魔剣は再び定位置、ゼロの腰へと舞い戻った。ゼロは思わず苦笑する。こっちの相棒とは、どうやら腐れ縁の様だ。
「…ふは、ふははははっ…」
 崖上では未だ、笑いと悲鳴が続いていた。が、それも歩を進めるにつれ、徐々に遠くなってゆく。
 ──ゼロの胸の内を、ある種の感情が過ぎった。それは頭上の愉快げな笑い声に関係しているらしい。だが、そんな思いとは馴染みの薄いゼロには、その感情を言い表す言葉を持たなかった。
 崖に沿って歩き続ける。月光が刻む影のみが、ゼロの道連れだった。頭上の哄笑は徐々に遠ざかり、月が陰ると同時に消え失せた。



 またまた過去作品を掲載します。
【二殺のゼロ】は連作ファンタジー小説です。殺し屋ゼロと相棒のシックが主人公……なのですが、このお話は2人が別離するきっかけを描いたものです。
 いきなり別れのエピソードから入っちゃいましたが、まあそれもありかな、と。自分ではけっこう気に入っているお話です。いかがなもんでしょうか。
 ……いいかげん続き書かなきゃなー。