歌鳥のブログ『Title-Back』

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【過去作品サルベージ】二人の騎士と二杯の酒【二殺のゼロ】

   二人の騎士と二杯の酒

 空家になったのは最近の事らしかった。窓も扉も破られてはいない。奥の部屋には寝台が二つ、居間には食卓と椅子が数脚。飾り気の無い殺風景な、だが落ち着いた感の室内。この数日に人の出入りした気配はない。微かに積もった床の埃に、ゼロの靴跡が残る。
 追跡されているのを承知で、ゼロは夜道を辿り根城へ戻った。トワークサヌの町外れ、林の中の古い丸太小屋。人が住むには辺鄙過ぎる。恐らくは監視小屋か何かだろう。前夜遅くに町へ入ったゼロは、最初に目に留まった空家を宿に選んだのだった。
 椅子の一つを叩き割り、暖炉に火を起こした。柑子色の炎が揺れ、およそ特徴の無い男の姿を照らす。闇に浮かぶ顔は、人の恐れる殺し屋とはかけ離れた、喜悦の表情だ。
 残った椅子の一つに腰を下ろすと、ゼロは長衣の懐から一本の瓶を取り出した。布の包みを解き、慎重な手つきで卓の中央に置く。次いで己の荷物から金属製の杯を探し出すと、瓶を包んでいた布で丁寧に磨いた。
 窓の外に金属音を聞くと、殺し屋の笑みが広がった。荷から今一つの杯を出し、こちらは無造作に卓へ置く。
 椅子に背を預ける。瓶へ手を伸ばす動作にすら喜びが漂う。己を焦らすように緩慢に、瓶を傾けた。赤い粘液質の液体が、小さく魅惑的な音を立てて注がれてゆく。まず一杯。芳香が甘く漂う。続いて、もう一杯。
 二つ目の杯が満ちた瞬間、木材の砕ける音が響いた。
 扉を破り現れたのは、甲冑姿の大男。面頬から覗く顔は意外な程幼く、巨大な体躯には似つかわしくない。手には抜き身の長剣、黄金に輝く鎧兜には見事な彫刻が施されている。
「奇妙なもんだな」
 別段驚いた風もなく、ゼロは杯の一方を手に取った。
「以前このトワークサヌを訪れた時、それとそっくり同じ彫刻のある甲冑の騎士と出会ったぜ。トワーク城の騎士の詰所でだ。もっとも俺の訪問は、こんな手荒なもんじゃなかったがな」
 優雅な手つきで杯を掲げて見せる。騎士は当惑し、次いで苛立った。ゼロは騎士の表情など意に介さず、静かに言葉を続ける。
「三年程前の話だ。あの騎士は、そう、名をケリハ・ジニとか言ったな」

 ――潜んでいた木立を出、月明かりの下に踏み出す。周囲を探る。人影は無い。足音を立てず、素早い動作で小屋へ近づいた。
 空樽を足掛かりに屋根へと上る。瓦を外し、開いた空間に身体を滑り込ませる。黴臭い空気が鼻をつく。その場に留まり耳を澄ます。物音は無い。が、人の気配。
 天板を外し、様子を伺う。と、下からの声が言った。
「今晩は。良い夜だな」
 ゼロは舌打ちし、穴から床へ飛び降りた。
 室内は良く整えられていた。板張りの壁の一方には騎士達の私物が並び、もう一方には馬具と刀剣類。中央には卓があり、瓶と杯が置かれている。丸椅子の一つに腰掛けた巨漢の騎士は、杯の一つを手にとって掲げて見せた。
「これはこれは。高名な『二殺のゼロ』とお見受けしたが」
「お見通しか」ゼロは苦笑した。「俺が天井に忍んでたのも、お見通しだったようだな」
 年嵩の騎士はかぶりを振った。正面に向き直ると、鎧に刻まれた装飾がゼロの目に映じた。
「そろそろ誰かが来る頃、そう想像していただけのこと。妙な気配はあったが、杯に波紋が生じなければ気づくことは無かったろう」
「俺も修行が足りんな。にしても、見事な洞察だ。その様子だと、俺が来た目的も承知らしいが?」
 騎士は微笑んだ。「私を殺しに来たのだろう」
 ゼロは頷いた。「あんたがトワークの騎士団長、ケリハ・ジニならばな、その通りさ」

「ケリハ・ジニは私の父だ」
 若き騎士が初めて口を開いた。その口調には苛立ちが混じり、顔には怒りが浮かんでいる。対するゼロは余裕の表情、剣先を向けられても、腰を上げようともしない。
「で、その鎧は父親の形見か。いや、違うな。修繕の跡がない。細工師に同じ装飾を刻ませた訳か。ご苦労なことだな」
 杯を口元に運び、深く息を吸い込む。鼻腔内に満ちた芳香に、思わず頬が緩んだ。一口含み、喉を鳴らす。満足げに目を細め、若き騎士を見やった。
「で、父の仇を討ちに来たって訳か。ケリハの息子よ」
「そんな名で私を呼ぶな」騎士は苛立たしげに答えると、荒々しく剣を収めた。
「私には立派な姓名がある。メントーヌ・ジニだ、覚えておけ」
「そう怒るなよ、ケリハの息子」
 ゼロはせせら笑った。
「落ち着けよ。まずは座って一杯やれ」

「せっかくの邂逅だ、まずは飲もうじゃないか。座って一杯やりたまえ」
 老騎士は穏やかに誘った。ゼロは腰を下ろしはしたが、騎士の差し出す杯に手を伸ばそうとはしなかった。騎士は苦笑し、己の杯から一口飲んで見せた。それでもゼロは手を出さない。
「そっちの杯を貰おう」
 ゼロは騎士の手にする杯を示した。騎士は己の杯を手渡し、ゼロはちらりと杯に目を落としてから唇をつけた。
「……」
 思わず言葉を失った刺客の表情に、騎士は大声で笑った。
「美味いだろう。この果実酒はトワークサヌの自慢だ」
「……今背後から襲われたら、この俺は隙だらけだぜ」
 ゼロは表情を崩した。殺し屋には似つかわしくない笑みを湛え、再び杯を傾ける。
「これ程美味い飲物は、赤子の頃飲んだミルク以来だな。畜生、こいつは罠だ。この酒で買収されちゃ、抵抗出来そうにないぜ」
「その心配は無かろう。まだ瓶には半分程残っている。飲みたければ私を殺して奪えば良いだけのこと」
 殺し屋の笑みが陰った。杯に張り付いていた視線を引き剥がし、微かな笑みを湛えた騎士を見据える。
「死を覚悟した口振りだな。抵抗しないのか?」
「抵抗はするとも。私は戦って死にたい、戦士だからな。だが如何なる時も、私は死を覚悟している。戦士だからな」
 静かな口調で答え、騎士は今一つの杯を手に取った。
「だが、その前に飲ませて貰おう。味わわずには死んでも死ねん」

「こいつは美味いぜ。あんたの父親に教わったのさ」
 ゼロは自分の手に在る杯を掲げ、若き騎士に示した。だが騎士は杯に手を伸ばすどころか、薦められた椅子にも触れようとしない。ゼロは唇の片側を歪め、嘲りの笑みを浮かべた。
「どうした? 俺が怖くて近寄れんか」
 その言葉は騎士の神経を逆撫でしたらしかった。ゼロの向かいの椅子を手荒く引き寄せ、どかりと腰を下ろした。挑む様に殺し屋を睨む。
「誰が恐れるものか、貴様如き暗殺者を」
「よくぞ吠えたもんだ、貴様如き騎士がな」
 言い返すと、ゼロは杯を傾けた。空いた手を伸ばし、指先で今一つの杯を押しやる。騎士は渋々といった表情で杯を取り、一口含んだ。
「私は父とは違う」と騎士。「酒は嫌いだ」
「酒の味が判らんか、まあ無理もないさ。あんた幾つだい」
「答える義理はない」若き騎士は鋭く言い放つ。ゼロは肩を竦め、また一口啜った。
 その後数刻は沈黙が配した。時折、酒が喉を通る音が響くのみ。ゼロは椅子に背を預け、足を組んで安楽の姿勢。そんな殺し屋の様子を、騎士メントーヌは緊張の面持ちで油断なく注視している。
「何を見ている」ゼロが口を開いた。
「貴様の顔だ」と騎士は答えた。「薄汚い、卑怯者の人殺しの顔だ」
「俺が卑怯者? そいつは初耳だ」
 ゼロは興味深げに眉を上げた。
「誰がそんな噂を流すのか、是非教えて貰いたいもんだな」

「貴殿の噂は頻繁に耳にする。『二殺のゼロ』、相当な腕前の戦士との噂だ」
 老騎士の称賛に、ゼロは相貌を崩した。「そりゃどうも」
 二人は既に一瓶を空にしていた。ゼロの物足りなげな様子に、騎士ケリハは棚の奥から今一つの瓶を取り出した。ゼロはにやりと笑い、二人の戦士は更に杯を重ねた。
「あんたの評判もよく聞くな。ケリハ・ジニ。トワーク城の守護者、民衆の誇り、偉大なるトワークサヌの英雄」
「英雄、か」
 ケリハは小さく呟いた。唇に浮かんだ表情は、自嘲の様にゼロには思えた。
「私は只の戦士だ。君と同じ、只の殺し屋だよ」

「人殺しの顔が見たいか。なら鏡を見ろよ」
 ゼロは嘲笑う。若き騎士の顔は怒りに紅潮した。
「私を愚弄するのか。トワークの騎士を、人殺しだと?」
「殺しの経験がないとは言わせんぜ。今迄何人殺した」
「私が倒したのは全て敵だ。私の戦いは正義の為、民衆の為の神聖なる戦いだ。貴様と一緒にするな」
 拳を卓に叩き付ける。杯が揺れ、赤い液体が跳ねた。ゼロは顔をしかめた。
「貴様のような卑怯者とは違う。貴様は私の父を、酔い潰れた無抵抗の父を惨殺した。忘れたとは言わせんぞ」
 ゼロは肩を竦めた。
「あの晩は俺も飲んでたぜ。それに、あんたの父親は潰れちゃいなかった。俺と真っ当に戦い、死んだのさ」
「嘘だ」騎士はぴしゃりと言い放つ。
 ゼロは唇の端を歪めて微笑した。「さて、嘘吐きは誰だろうな」

「私は北の生まれだ。十二の歳に故郷ヴァーファイを出、騎士を志しトワークへ入城した」
 己の半生を語る老騎士。とても立身した男のものとは思えぬ、慙愧の念に満ちた口調だった。ゼロは無言で杯を傾けた。
「幾多の戦を乗り越え、私は城の安全を任される身となった。トワークサヌの民は私を敬い、愛してくれた。妻を娶り、跡継ぎも生まれた。息子の入団を機に、私は休暇を取り故郷へ戻った」
 騎士は手の内にある杯に微笑みかけた。赤い液体の表面に映る己の姿を憐れんでいるようにも見えた。
「ヴァーファイでの私の評判は、こうだ。”血の将軍”。”殺戮者”。”闇の使者”。”破壊騎士”。――隣国との戦いの噂が、我が故郷にまで届いていたのだ」
「成程」ゼロはにやりとした。「で、その評判は偽りだってのか」
「ならば苦悩はせぬ」と老騎士。「全ての噂は真実だ。私は幾多の戦場へ赴き、殺戮を繰り返した。我が民の為の争いではあるが、立場を変えれば敵も皆同じこと。隣国から見れば、私は殺戮者に過ぎぬ」
 何時の間にか騎士の嘲笑は消え、口元には苦渋の皺が刻まれていた。ゼロは小さく肩を竦め、言った。
「そいつが承知出来ているならな。御老体、やはりあんたは立派な騎士さ」

「老いた父が飲み暮れていた事、この私でも知っている。父は酒に溺れ、堕落した。晩年の父は高貴なる騎士ではなかったのだ」
 苛立つ若者に対し、ゼロは飽くまで冷笑な態度を崩さない。
「俺の知る限りじゃ、あんたの父親ほど理解のある騎士は貴重だぜ」
「それは殺し屋の理屈だ。汚濁した貴様の職業が、同類を憐れんでいるに過ぎぬ」
「あんたの職業はどうなんだい」唇の端に笑みが浮かぶ。「散々ご立派な説を唱えちゃいるが、所詮はあんたも同類、一人の殺し屋さ。正義の為の戦いなど詭弁に過ぎんぜ」
 騎士は激昂した。椅子を蹴り立ち上がる。
「貴様と一緒にしないで貰おう。我々トワークの騎士は皆高潔だ。民を守り、城を守る事を生業としているのだ。殺人で報酬を得る貴様等とは違う」
「敵を殺す瞬間」ゼロの笑みが深くなる。「嬉しいだろう」
「何だと?」
「相手が誰だろうと、どんな大義名分があろうとだ。殺しの快感は変わらんさ。あんたも知っている筈だ、殺戮の楽しみをな。違うか?」
 若き騎士はたじろいだ。
「勝利の愉悦と殺戮のそれとは違う。そんな理屈は通用せぬぞ」
「俺は人から依頼を受け、殺す。その後で報酬を受け取り、ついでに喜びを得るのさ。一方、あんたら騎士は敵を憎む。憎んだ相手を殺し、そこで快感を得る」
 一旦言葉を切り、ゼロは杯の赤い液体を含んだ。ごくりと喉を鳴らし、熱を帯びた言葉を発した。
「さて。薄汚いのはどっちだい」
 激しい音を立て、卓上の杯が弾け跳んだ。怒りに駆られた騎士が片腕を一閃させたのだ。
「――貴様の息の根を止める事は、我が最上の喜びとなるだろう」
 壁に飛び散った液体を見て、ゼロは痛々しくかぶりを振った。

 杯が満ちた時点で、最後の滴りが落ちた。老騎士は無念そうにかぶりを振った。
「さて、これが最後の一杯か。生涯最後の酒だというのに、二人で分け合えぬのは辛い」
「俺を倒せば良いのさ。生き延びて、また買えば良いだけの話だろ」
「それを気力の源としようか。そこで思いついたが」騎士はゼロに笑みを向けた。「我等の戦い、生き延びた方がこの杯を取るのはどうかね。勝者への報酬にふさわしかろう」
「ああ、そいつは正に剣技の源になりそうだ」ゼロは笑みを返した。「なら、そろそろ始めるか」
 両者は立ち上がった。柄に手をかけ、騎士は穏やかに尋ねた。
「死ぬ前に聞いておきたい。私の殺害を依頼したのは誰かな?」
 ゼロは両手をだらりと下げ、筋肉をほぐしている。
依頼人の名は明かせない。――だがな、あんたには見当がついてるんだろ」

「これ以上の戯れ言は無意味だ」
 若き騎士は柄に手をかけた。「遺言があるなら聞いておこう。酒を干したいのなら、早くするがいい」
 殺し屋が瓶を傾けると、最後の滴が滴り落ちた。ゼロはなみなみと満ちた杯を卓へ置いた。
「まあいい。この一杯は、あんたを片付けた後で味わうとするさ」
「生き延びられると思ったら大間違いだぞ、哀れな殺し屋よ」騎士は凶悪に微笑んだ。「私の合図一つで、仲間の騎士がこの場へ斬りかかる手筈だ。既に扉も窓も包囲した。逃げ場はない」
 ゼロはにやりと笑みを返す。「奇襲に失敗した上に、数に任せて勝とうってのか。高潔な騎士が聞いて呆れるぜ」
「これは奇襲ではない。作戦だ」と騎士。「貴様の討伐は崇高なる任務だ。我が君主トワーク様に命じられた、民衆の為の立派な行いだ」
「……馬鹿が。躍らされてるとも知らず」ゼロは小声で呟く。

「我が君主、トワーク様。あのお方が依頼されたのだろう、私の殺害を?」
 老騎士が呟く。ゼロは無言、だが肯定の笑みを返した。
「ここ数ヶ月、私はあのお方に意見していた。トワークサヌは今再び、隣国への侵攻を準備している。何とかお考えを改められるよう、私は尽力していたのだが……」
「あんたの君主とやらには、あんたは口煩い老人としか映らないらしいぜ」とゼロ。
「実に口惜しいことだ」老人は哀しげにかぶりを振った。「だが主に背いた騎士は最早騎士ではない。それで我が命運も尽きたか」
「俺に何かを依頼したいのならな、さっきの酒で充分な報酬だぜ」
 ゼロの提案に、老騎士は再度かぶりを振った。
「報復もまた殺戮、新たな殺生を依頼する気はない。……だが一つ頼みの儀がある。どうか我が息子にだけは、手を出さんで貰いたい」
「依頼はあんた一人だけだ。俺に剣を向ければ別だが、他の誰かを斬る予定はないぜ」
 騎士は頭を下げた。「礼を言う」
「礼には及ばんさ」
 殺し屋は答え、二振の剣を同時に抜いた。「さて、始めるか」
「ああ」騎士は応じて、腰の長剣を抜いた。「始めよう」

「その剣を抜いた瞬間、あんたは自分の死を宣告する事になるぜ」
 ゼロは渋々といった仕種で立ちあがった。
「父の二の舞が嫌なら、尻尾を巻いて逃げることだな」
「三年前とは事情が違う」若き騎士は断言した。「私は酔ってなどいない、酔っているのは貴様だ。しかも多勢に無勢、貴様に生き延びる術はない」
「……そう、三年前とは事情が違うな」ゼロは頷く。「俺にも仲間が出来た。相棒がな」
 告げた瞬間、窓の外で悲鳴が上がった。次いで屋根から物音が伝わり、やがて扉の向こうからも絶叫が響いた。
「……何事だ」騎士は狼狽した。方々へ視線をさ迷わせ、窓へ、扉へ呼びかける。「マラロ! プージグ! 何事だ、説明しろ! ……ドフ! 直ぐに此処へ来い!!」
 返事は無く、代わって明らかに人間の物ではない低い声が応じた。
「雑魚は全て片付いた。ゼロ、もう邪魔は入らんぜ」
「と、いう訳さ」殺し屋は戦慄する騎士に皮肉な笑みを投げた。「さて、どちらを選ぶ? 剣を収めたまま立ち去り、生き延びて父以上の恥を晒すか。あるいは剣を抜き、己の死を招くか」
 平静を失った騎士から返答はない。開いた面頬から覗く顔は色が失せ、額から汗が滴り落ちた。

 ――見事な彫刻の胸元を、魔剣の刃が貫いていた。ゼロは横たわった老騎士の死体から剣を抜き、血を振り払って鞘へ収めた。
 卓へ歩み寄り、杯を手に取る。そこでふと動きを止め、暫し思案に暮れた。
「……良い酒を教えてくれた。こいつはその礼だ」
 跪き、最後の杯を老人の傍らに置く。
「黄泉への道中、ゆっくり味わう事だな。あの世に着いたら、また別の酒があるだろうさ」
 立ち上がって屍を見下ろした。部屋に死体は一つのみ。『二殺のゼロ』としては物足りないが、まあいい。
 やがては、別の殺しの機会があるだろう。

 ――兜の下の僅かな隙間から、若き騎士は鮮血を迸らせた。ゼロは優雅に背を向けた。刃に残る血を拭い終えた時、騎士は恐怖の面持ちを残し、背後に倒れた。
「終わったか?」と、扉の向こうの声。
「ああ」ゼロは応じた。「入っていいぜ」
 扉が開き、異形の巨体が現れた。鱗の生えた肩口は、既に赤黒い液体で覆われている。爪からも牙からも粘液が滴り落ち、シックは牙を剥き出してにたりと笑った。
「馬鹿な若造だな。剣さえ抜かなきゃ生き延びられたものを」
「絶望しつつ、こいつは剣を抜いた。それだけは評価してやるさ」
 ゼロは若き騎士の死体を見下ろした。若さは時に、勇気と愚かさを同時に生む。その結果がこの屍だ。
「で、どうするよ」とシック。「あんたの殺しを命じた男、まさか見逃す訳じゃあるまいな?」
「当然だ」ゼロは頷く。「夜は長い。今夜これから、トワークの城主を訪問するとしようぜ」
 シックはにやりとした。「有り難いね。俺は更なる血が拝める、あんたは『二殺』を成し遂げられる、と。今夜の働き、まだ『一殺』だからな」
「……いや」
 ゼロは思慮深げにかぶりを振った。
「『二殺』は既に完成している。城主の対は、また別のを探すさ」
 卓に歩み寄り、杯を取った。相棒に掲げて見せる。
「飲むか?」
「いらん。俺にはこいつで充分だ」
 爬虫人は血塗れの両手を晒して見せた。ゼロは顔をしかめ、騎士の死体に視線を移した。傍らに膝をつき、兜の横に杯を置く。
「この酒の味は、あんたには判らんだろ。冥土の土産に持って行きな。あんたの父親に、宜しく伝えてくれ」
 シックは乾いた声で笑い、部屋を出て行った。暫しの後にゼロも後を追い、部屋には床の屍と、赤い液体の満ちた杯のみが残された。


 過去作品、連作短編の一本です。なんとなく思い出したのでアップしておきます。
 いいかげん新作も書きたいんですが、なんやかんやありまして。