歌鳥のブログ『Title-Back』

歌鳥の小説やら感想やらなにやらのブログです。よしなに。

【幻の景色(かげのいろ)】一・ひぐらし

“幻の景色”と書いて“かげのいろ”と読みます。読んでくださいお願いします。
 過去作です。珍しく長いお話です。読みづらいので章ごとに掲載します。



   一 ひぐらし

 はじめてこの博物館を訪れたときも、やっぱりせみがやかましく鳴いていた。
 中学二年の夏休み。強烈なはずの夏の日差しは、杉の梢にさえぎられて少しだけやわらいでいた。かすかに潮のかおりが混じる空気はねっとりと湿っぽくて、けれどもちょっとだけやさしくそよいでいた。林を抜ける上り坂のむこうに、その博物館はひっそりとたたずんでいた。
「お姉ちゃん、早くはやく!」
 入口のところで、奈子ちゃんがぶんぶん手を振っている。この暑いのに元気いっぱいだ。
 かりんは奈子ちゃんを追って走っていってしまった。わたしはとてもそんな元気はなく、しばし足を休めてその建物を見つめた。
 暗くて陰気な建物を想像していたのだけれど、そのイメージはだいぶ違っていた。レンガ作りの、ちょっとしゃれた外見の建物。とても博物館には見えない。これが東京の街なかだったら、きっとレストランかなにかと間違えてしまうだろう。
「はやくおいでよ、みさき!」
「みさき姉ちゃん、おいてっちゃうよ!」
 口々にそう叫ぶと、ふたりはさっさとなかに入ってしまった。――ちょっとぐらい待っててくれてもいいのに。わたしはあわてて走りだした。


   * * *


「藤崎さん、ちょっといい?」
 村岡さんが――この頃はまだ『かりん』ではなかった――そう声をかけてきたのは、その年の春、一学期がはじまってからいく日か過ぎた、ある日のこと。ホームルームが終わり、わたしが教室を出ようとしたときのことだった。
 村岡さんは色白で、ちょっと線の細い印象の女の子だった。長い髪をうしろで三つ編みにして、右の肩からまえに垂らしている。ひかえめで、おとなしくって、あまりめだたない子。
 一年のときは違うクラスだったし、春になっておなじクラスになってからも、まともに言葉を交わしたことはない。だからこの日、こんなふうに急に話しかけられて、わたしはびっくりしてしまった。
「うん。なに?」
「あの……藤崎さん、文芸部だったよね」
「うん、そうだけど」
 村岡さんは照れたようにうつむいて、か細い声で、
「あのね、あの……わたしも入部させてもらおうかな、と思って」
 わたしはとたんに舞いあがってしまった。両手で彼女の手を握って、
「ホントに? 本当に入ってくれるの!?」
「え、うん。……もし良かったら、だけど」
「もう大カンゲーだよ! よかったあ。うちの部、二年生の女子って、あたししかいないんだよね。本当、すっごくうれしい!」
 握った手をぶんぶん振りまわす。きっと村岡さんは痛かったことだろう。けど、そんなことはおくびにも出さず、
「そんなに喜んでもらえると、わたしもうれしい」と、にっこり笑ってくれた。
「ね、これから部室に行ってみない? どうせ誰もいないだろうけど。時間ある?」
 部室といえば聞こえはいいけど、ほんとのところは一階の階段わきにある社会科の教材室。スペースが空いていたので、机と椅子をみんなでこっそり持ちこんで、いすわってしまったのだ。だれにも文句を言われてないから、たぶんかまわないんだと思う。
 休みが明けてから部室に入ったのは、わたしたちが最初だったらしい。鍵をあけてなかに入ると、部室はほこりまみれだった。
「うわ、きったなあ」
「お掃除しないと、使えないね」
「とりあえず、机と椅子だけ拭いちゃおう。残りは他のみんなにやってもらえばいいよ」
 パッパッと拭き掃除を済ませて、村岡さんとわたしは向かいあわせに腰をおろした。――と、話すことがない。それはそうだ。まともに会話をするのははじめてなのだから。必死に話題を探す。
 先に口を開いたのは村岡さんだった。
「藤崎さん、どんなのを書くの? 小説?」
「あ、うん。あたし詩は書けないんだ。小説ばっかり。ドタバタの学園もの。読む?」
 わたしは部員用のロッカー(これも勝手に持ちこんだもの)から、原稿用紙の束を引っぱり出した。
「えっと、これと……これと、これが短めのやつ。すぐ読み終わるよ」
 わたしの原稿用紙と交換に、村岡さんは一冊のノートを渡してくれた。ずいぶん古めかしいかんじの、なんの飾りっけもないノート。
「わたしは詩しか書けないの。このノート、いっつも持ち歩いてるんだ」
 ぱらぱらとめくってみる。最初のページから三分の一くらいが、横書きの小さなか弱い文字で埋められていた。村岡さんがわたしの原稿を読みはじめたので、わたしもノートの一ページめを開いた。
 しばらくすると、村岡さんはくすくす笑いだした。
「これ、すっごくおもしろい!」
 わたしは答えなかった。答えられなかった。顔をあげることさえできなかった。
 ノートから目が離せなかったのだ。
 村岡さんのノートには、本人の言葉どおり、詩篇ばかりが並べられていた。二十といくつかもあっただろうか、長い詩もあれば短いものもある。小さくてはかない、いかにも村岡さんらしい文字で書かれた、その詩は……。
 古語体、とでも言えばいいのだろうか。現国の教科書には載っていない、昔ふうの言葉づかいで綴られていた。完全な古文じゃないみたいだけど、決して現代の言葉ではない、あいまいな文章。
 ――いまになって、この詩をひとつでも思い出せないのが、くやしくてしかたない。わたしが覚えている詩は、このノートには書かれていない、ひとつだけ。こんな文体だから、覚えづらいのは当然なんだけど。
「これ……すごいよ」
 やっとの思いでそれだけ言うと、わたしはふたたびノートに顔を埋めた。それ以上の感想や感嘆は出てこなかった。口から出るのは、ただ、ためいきばかり。
 わたしがノートを読み終えるのとほぼ同時に、村岡さんもわたしの原稿から顔をあげた。
「ありがと。楽しいお話ばっかりだね」
 村岡さんは原稿の束を差しだした。わたしもノートを返そうと手を差しだして――ためらった。
「ね。これ、コピー取らせてくれない?」
 村岡さんはちょっと困ったような顔になった。ずいぶん迷っていたみたいだけど、しばらくしてから、村岡さんはようやくこっくりうなずいてくれた。なぜか、妙に悲しげな表情を浮かべて。
 図書室へ足をはこぶ。ここには十円いれて動くコピー機が置いてある。わたしはありったけの小銭を使って、ノートに収められた詩編のすべてをA4の紙に写しとった。――徒労に終わるとわかっていたら、こんな苦労はしなかったのだけど。
 次の日の放課後。わたしは文芸部のみんな(わたしを含めて五人しかいない)に声をかけて、部室にあつまってもらった。部室の大掃除を済ませてから、わたしはみんなに村岡さんを紹介した。
「村岡です。よろしく……」
 消え入りそうな彼女の自己紹介のあと、わたしはコピーさせてもらった詩のひとつをみんなに見せた。――いまではタイトルも思い出せないけれど、せみに関する内容だったということは覚えている。それと、みんなの反応も。
「うわあ……」
「これ、すごいね。きれいな文章……」
「ちょっと真似できねえぞ、これ」
 わたしは鼻高々だった。なんだか自分がほめられたような気がしたのだ。けれど、村岡さんは照れたようにうつむいたまま。もっと胸を張ってもいいのに。
「ねえ、ひとつ聞いていい?」
 そう言ったのは富田先輩。うちの部長さんだ。
「どうして蜩の鳴き声が『てて、てて』なの? あれって普通は『かなかな』って鳴くのよね」
 そう言われるまで、わたしはそのフレーズに意味があるとは思っていなかった。ただの変わった表現、としか捉えていなかったのだ。さすが部長さん、目のつけどころが違う。
 そしてやっぱり、それにはちゃんと深い意味があったのだ。
「えっと、それは、あの……」
 耳まで赤く染まった顔で、村岡さんはしどろもどろに説明をはじめた。
「『てて』というのは、昔の言葉で『お父さん』っていう意味なんです。さっきまで頭のうえで『てて、てて』と鳴いていた蜩が、力つきて地面に落ちてしまう、っていうのは、つまり……」
 わたしたちは言葉を失くしてしまった。この詩にそんな想いがこめられているなんて、だれ一人考えもしなかったのだ。
「おい藤崎、時期部長の座があぶねえぞ」
 しばしの沈黙のあと、伊藤くんが肘でつついてきた。彼はなにかにつけ、わたしを次の部長にしたてあげようとする。おなじ二年生なんだから、自分がなったっていいのに。
「別になりたくないもん、部長なんて。村岡さんがやってくれるんなら、大カンゲーだよ。ね、村岡さん」
 村岡さんはますます小さくなってしまった。