【幻の景色(かげのいろ)】八・ひぐらし
過去作です。読みづらいので分割して掲載しています。
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八 ひぐらし
あれから毎年、夏になると、わたしはこの街をおとずれ、博物館に足をはこぶ。
杉の林を抜ける小道のむこう。その博物館は、あのときと同じようにひっそりと建っている。あたりの景色も、あのころとちっとも変わっていない。せみの鳴き声も、梢からもれる夏の日差しも、あのころのまま。
受付の老人に『瓦礫の博物誌』のコピーを渡した。館長さんがモデルなんです、と言うと、照れくさそうに笑ってた。どこかのコンテストに応募したいんです、と話したら、館長さんは素直に喜んでくれた。応援します、とも言ってくれた。
ドアをきしませてなかに入ると、クーラーの冷たい空気がむかえてくれる。床のタイルも、がらんとした雰囲気も、あのころとおんなじ。
* * *
かげのいろ。
あのときはちっとも意味がわからなかった、この言葉。ようやく意味がわかったのは、あの日の夜、家に帰りついてからのことだった。
おもいっきり混乱しながらも、わたしは博物館を出るとき、受付の老人に訊ねることは忘れなかった。
「あの、すいません、あたしと一緒に来た女の子ふたり、どこに行ったか知りませんか?」
「いや、知らないよ」という答えを予想していたのだけど、それはちょっと外れていた。老人は不思議そうな顔で、こう答えたのだ。
「ここには、あんた一人で来たろ? 今日はほかにお客さんは来てないよ」
もう、なにも考えられなかった。とりあえず駅前の集合場所に戻って、文芸部のみんなに訊いてみた。
「ねえ、かりん――村岡さんと奈子ちゃん、見なかった?」
今度の答えは予想どおりだった。みんな口をそろえて、
「村岡? だれ、それ?」
きつねにつままれた気分だった。なんだかもう、わけがわからない。呆然としたまま家までパニックを持ち帰ったわたしは、思いついて机の引き出しに飛びついた。
もしも――考えたくないけど――もしも、かりんと奈子ちゃんのことが、ぜんぶ夢だったとしたら、この引き出しにはなにもない。でも、かりんのことがすべて本当のことならば、ここには図書室で写しとった、かりんのノートのコピーがあるはずだった。祈るような気持ちで引き出しを開けた。
コピーは、あった。白紙のコピーが。
どの紙にも、なにも書かれていなかった。あのとき、たしかにコピーをとったはずなのに。まっしろ。白紙。からっぽ。
全身の力が抜けてしまい、わたしは床にへたりこんだ。
そしてこのとき、わたしはようやく「幻の景色」の意味を悟った。
思いおこしてみると、一年のときにかりんと一緒のクラスだったという子は、だれもいない。一年のときに『村岡』という生徒がいた記憶は、ない。まるで、二年の始業式の日に、かりんが突然あらわれたみたいに。
夏休みが明けて学校に戻ると、『村岡』という生徒の痕跡はどこにも残っていなかった。机もないし、ロッカーもない。下駄箱の名札にも『村岡』という文字はない。誰に訊いても、誰と話をしても、『村岡』という生徒を覚えている人は、いない。
なにも残っていなかった――わたしの思い出のほかには。
はっきりと覚えてる。はじめて話しかけられた、あの日の放課後。ほこりだらけの部室で、お互いの作品を見せあったこと。うちの台所での、奈子ちゃんとのお手玉合戦。公園のベンチで食べた、クレープの味。そして、合宿の日、岩場で話しあったこと。なにもかも、すべて。
あれが夢だったなんて、考えられない。あれは確かに、本当に起こったことだったんだ。絶対そう。
たぶん、こういうことなんだろう。二年の始業式の日、かりんはさりげなくわたしのクラスにまぎれこみ、そのまま生徒のひとりとして生活をはじめた。文芸部に入って、夏の合宿の目的地が渥美半島になるようにしむけた。そして部員のひとり――わたし――を、あの博物館に連れていった。すべては、ただ、そのためだけの行動だったんだ。
目的を果たしたあと、かりんはみんなの記憶を消した。いきなり一人の生徒が姿を消すのは不自然だ。はじめからいなかったことにしたほうが、都合がいい。
けれど、そこで、わたしは余計なことをしてしまった。なかば強引に、かりんと友だちになってしまったのだ。
かりんとの偽りの日々を、とっても楽しい、素敵な、忘れられないものにしてしまった。――すくなくとも、わたしにとってはそうだった。きっと、かりんも同じ思いだったに違いない。
だから、かりんは、残していってくれたんだ――わたしの記憶を。
合宿から帰ったわたしは、しばらく呆然と時を過ごした。無理もない。友だちがひとり、いなくなってしまったのだから。
一週間ほどうつろな日々が過ぎたあと、わたしは原稿用紙に向かった。
* * *
あれから数年がかりで、わたしはようやく『瓦礫の博物誌』を完成させた。図書館でいろいろと調べものをしたり、納得のいく仕上がりになるまで書き直したりで、ずいぶんと時間をかけてしまったのだ。そのあいだにワープロも使いこなせるようになったし、いくらか文章も上手になったような気がする。
背も伸びたし、髪も伸びた。けど、意地っぱりで負けずぎらいの性格は、あのころからちっとも直っていない。
館長さんにも話したとおり、この小説はどこかのコンテストに出すつもり。賞がほしいわけじゃない。ただ、より多くのひとに読んでもらいたいだけ。それが、かりんの望みなのだろうから。
――けれど、その裏側に流れる、もうひとつのものがたり。
かりんという名の少女のものがたりは、誰にも話すつもりはない。
これは、わたしたちふたりだけの、大切な思い出だから。とっても楽しい、素敵な、そして――悲しい思い出。
あれから毎年、夏になると、わたしはこの博物館を訪ねる。がらんとした部屋の雰囲気も、ショーケースの中身も、あのころと同じ。お弁当箱、雨がっぱ、お手玉、グローブ、釣竿、それに……。
あの焼け焦げたノートは、もうなにも語りかけてはくれない。ただ無言で、わたしの視線を受けとめるだけ。
追って調べようと思ったことは何度もあった。お手玉の持ち主だった中山加奈子さんの写真が残っていないか、とか、空襲で亡くなった人のなかに、村岡鈴子という名の女の子がいなかったか、とか。でも、結局はなにもしなかった。わたしにとって、奈子ちゃんは奈子ちゃんで、かりんはかりんだ。それでいい。
部屋を出るとき、わたしはちょっと振りかえって、かりんのノートに別れを告げる。また来年、と約束して。
館長さんにかるく頭を下げて、博物館を出たわたしは、すこし遠まわりして駅へむかう。林のなかをのんびり歩きながら、せみの鳴き声に耳をかたむける。
――ひとつだけ心残りがある。かりんのノートに書かれていた、詩。あの詩をひとつでも覚えておけばよかった。せめて、あの蜩の詩だけでも。
もしも――もしももういちど、かりんに出会うことができたなら。
そのときは、あのノートに書かれた詩を、暗記するまで読みかえそう。コピーなんか取らなくてもいいくらい、くりかえし、くりかえし。
それまでは、あの詩で我慢することにしよう。
わたしがひとつだけ覚えている、あの詩。
わたしが生まれてはじめて書いた、あの詩。
あの夏の日に、かりんと、奈子ちゃんと、わたしが、三人で書きあげた、あの詩で。
せみが奏でる 夏のしらべに
褪せることない 幻の景色(かげのいろ)
――かりん、なこ、みさき。