【ここにいない由佳里】【断片】自転車の王子さま
自転車の王子さま
「ただいま」
言いたくないけど、言った。
「あんた、こんな時間まで何やってたの」
母はリビングのソファーに寝そべって、熱心にスマホをいじくっていた。テレビがつけっぱなしだったけど、ぜんぜん見てない。もちろん、わたしの方なんて見ようともしない。
わたしは気にしないことにした。ダイニングの床にカバンを置いて、テーブルに座った。
テーブルには一人ぶんの夕食があった。コロッケとポテトサラダ、それとご飯とお味噌汁。
母は料理をしない。ご飯は炊くけど、それだけ。お味噌汁はレトルトだし、コロッケとサラダはスーパーのお惣菜。
夕方六時くらいになると、母は炊いたご飯と買ってきたおかずをテーブルに並べる。わたしや姉が家にいなくても、おかまいなし。わたしが帰るころには、ご飯は硬くなってるし、お味噌汁は冷え切ってる。おかずはたぶん、最初から温められてない。
姉はときどき文句を言うけど、わたしは何も言わなかった。言っても意味ないし。
サラダとコロッケは同じお皿に載っていた。すこし迷ってから、お皿ごとレンジに入れた。
「あんたが早く食べないから、いつまでも片付かないじゃない」
ダイニングに隣接したリビングから、母が声をかけてくる。相変わらずソファーの上で、スマホを睨みつけながら。
わたしはいつも、自分で食器を片付けている。けど、反論してもしょうがない。
「はい」
適当に返事をして、今度はご飯とお味噌汁をレンジにかけた。
「お姉ちゃんはとっくに帰って勉強してるのに。どうしてあんたはこうなのかねえ」
母のお小言、というか文句は続いてる。わたしは返事をしないで、聞きながした。
――姉は高三で、本当なら受験生。学校はエスカレーター式だけど、いちおう試験はあるらしく、最近は部屋にこもって勉強してることが多い。
姉と顔を合わせる機会が減って、わたしはすこしほっとしていた。
けど、母はずっとリビングにいる。
「あんたと違って、お姉ちゃんはしっかりしてるわ。あんたは帰るのも遅いし、言われても勉強しないし」
勉強なら、もう図書館で済ませてきた。宿題も終わってる。けど、そんなことを説明してもしょうがない。
「いただきます」
温めなおした夕食を並べて、食べはじめた。味についてはあまり考えないようにした。
「塾だなんだってお金ばっかりかけて。おまけに、遠くの変な高校に入るし。なに勉強してるのか知らないけど。そもそも、あんたまじめに通ってるの?」
塾には姉も通っていたし、学費は姉の学校のほうが高いはず。
わたしは聞き流した。気にしてもしょうがない。
「よくわかんない学校通って、毎日遊び歩いて。将来どうする気なのかねえ」
――気にしないでいるのが難しくなってきた。
リビングのテレビには、何かのドキュメンタリーが映っていた。けど、ここからだと音がよく聞こえない。
わたしは携帯を取り出して、テーブルの上に置いた。姉のお下がりのガラケーだけど、それなりの機能はある。スライドショーにして、撮りためた写メを眺めることにした。
由佳里と舞と、三人で撮った自撮り写真。舞の絵。由佳里の変顔。近所の猫。遊歩道の花壇。舞にじゃれつく由佳里。由佳里に笑いかける舞。
見ているうちに、気分が上向いてきた。気のせいか、パサパサのご飯もおいしく思えてきた。
「あんた、話聞いてるの?」
顔をあげると、母がリビングからこっちを睨んでいた。
――しまった、返事するのを忘れてた。
「はい」
「食事中に携帯いじって、行儀悪いわね」
母はそう言ってから、自分がスマホを持ったままなのを思い出したらしかった。視線をそらして、またソファーに沈みこむ。
わたしも、パサパサのご飯に戻った。母にどう言われようと、携帯をしまうつもりはない。写メに集中して、もういちど気分を変えようとした。
「あんたはどうしてそうなんだろうね」
母がぶつぶつ文句を言って、わたしの努力を無駄にする。
「お姉ちゃんはしっかりしてるのに、あんたは生意気だし、言うこと聞かないし。お姉ちゃんはいつでも――」
「やめてよ、そういうの」
びっくりして、箸を落としそうになった。
母も驚いたみたいだった。スマホから顔をあげて、こっちを見ている。
「え?」
「わたしと比べて藍音の悪口言うの、やめてよ」
開けっぱなしだったドアから、姉がダイニングに入ってきた。お風呂上がりだったらしく、ほんのりとシャンプーの匂いがする。頭からタオルをかぶっていて、顔はよく見えない。
「……悪口じゃないでしょ。叱ってるのよ」
母がむっとして言いかえした。まだ驚きが続いているのか、声が弱々しい。
「今のはただの言いがかりでしょ。なにも叱ってないじゃない」
「本当のことでしょ。あんたはしっかりしてるけど、この子はふらふらして」
「藍音はしっかりしてるよ。わたしよりずっとしっかりしてるじゃない」
自分の耳が信じられなかった。
姉がわたしをかばって、母に言いかえすなんて。本当とは思えない。
姉は、母とは仲が良かった。
わたしと違って、姉はよく母の雑談につきあっていた。いっしょに愚痴や、父の悪口で盛りあがっていた。
母がわたしに文句を言う時、姉は聞こえないふりをしていた。母といっしょに文句を言うことはないけど、反論することもなかった。
この日の、この夕食の時までは。
「しっかりしてないわよ。今日だって、こんなに遅く帰ってきて」
「わたしが遅く帰っても、お母さんなんにも言わないじゃない」
「……あんたはしっかりしてるからでしょ。成績だっていいし。この前のテストだって、あんたのほうが点数よかったし」」
「学校のレベルが違うんだってば。前にも説明したじゃない」
姉の声は不安そうで、すこし震えていた。お風呂上がりなのに、凍えてるみたいな声だった。
「……あんたは味方だと思ってたのに」
母はぶつくさ言いながら、スマホに戻った。
姉はしばらく立ちすくんでいたけど、わたしの視線に気づくと、あわてて背を向けた。わたわたと冷蔵庫に向かって、スポーツドリンクをごくごく飲んだ。
わたしは、もう食事どころじゃなかった。
「ごちそうさま」
箸を置いて立ちあがった。いつもは食器を洗うけど、残りものもそのままテーブルに置きっぱなしにした。カバンをつかんで、部屋に行こうとした。
――携帯を忘れた。
取りに戻ろうとするのと、
「あ、藍音、携帯」
と、姉が手を伸ばすのが同時だった。
(触らないで)
そう言おうとした。けど、声が出なかった。
慌てて携帯をつかんだ。先に手を出していた姉の指先が、ストラップに引っかかった。
ぷつんっ。
小さな音がして、マスコットが宙に飛んだ。
――月のマスコット。わたしの宝物。
「あっ、ご、ごめ……」
わたしは聞いていなかった。
床に落ちたマスコットを拾って、そのまま玄関を飛び出した。
行くところなんてなかった。けど、とにかく家にいたくなかった。歩きながら携帯を開いた。
『もしもし、藍音?』
由佳里の声を聞いた瞬間、(失敗した)と思った。
順番を間違えた。先に舞に連絡すればよかった。けど、今さらしょうがない。
「ごめん、こんな遅くに」
『いいけど、どうしたの? 声変だよ』
「うん、ちょっと。由佳里、今から出てこれる?」
『今から?』
困った声だった。当たり前だ。もう九時過ぎてる。
『ええっと、行けないこともないけど。どこ行くの?』
「どこでもいい。家にいたくないんだ」
『どこでもって……』
「たぶん舞の家。だめならファミレスか、漫喫か」
『えっと、えっと……待って』
由佳里はお母さんとすこし話してから、答えた。
『すぐ行く。今どこ?』
「ありがと。がじゃまる公園にいる」
舞にも連絡して、どうにか泊めてもらえることになった。公園のベンチで待っていたら、自転車に乗った由佳里が現れた。
「やっほー。お待たせ!」
白馬の王子さまみたいに見えた。颯爽とした由佳里の姿。
「ごめんね、急に呼び出して」
「ううん、気にしないで……じゃない、こういう時は違うでしょ」
「あ……うん。由佳里、ありがとう」
心の底からほっとした。やっぱり、由佳里は頼りになる。
久々の断片です。だいぶ前に一度書いたんですが、PCと共におなくなりになりまして……。で、書き直しました。
書き直した結果、前よりは良くなったと思います。誰も前のを読んだことがないので、言ったもの勝ちです。えへへ。