歌鳥のブログ『Title-Back』

歌鳥の小説やら感想やらなにやらのブログです。よしなに。

ボクはキミじゃない。



 何が言いたいかといいますと、似たようなタイトルで別の曲、でもテーマはちょっと似通ったところがあるな、ということです。
 で、そのテーマとはあんまり関係ない話題。

 先日こんなニュースがありまして。

近畿大で「反安倍」入試問題か 首相や政権の方針が批判的に登場…大学側「適正との結論」

 この問題そのものが妥当かどうか、というお話は置いといて。

 今ちょっと見当たらないのですが、私が読んだニュースでは、なんか専門家の人が「安倍批判は自虐的だ」「こんな自虐的な問題はけしからん」みたいなニュアンスのことを語っていました(↑の記事でも似たようなこと書いてありますが、私の記憶とニュアンスが異なるので別の人かもしれません。私の記憶違いの可能性もあります)。

 で、疑問を抱きました。
 政権批判がどうして「自虐」になるのか、と。

 当然のことながら、私は安倍ではありません。 おそらく、受験生の大半も安倍ではないと思います。
 問題を作った大学側の人も、たぶん安倍ではないでしょう。
 そんな人たちが安倍政権を批判したら、自虐になるんでしょうか。
 自虐というのは、安倍本人が

「いやー知り合いを8億儲けさせたらマスコミにバレちゃってさ~参った参った」

 みたいなことを言うことでしょう。
 親戚でも友人でもない受験生が安倍批判を目にしたからといって、自虐にはならないはずです。

 てなことを考えているうちに、また別のことに気づきました。
 ↑の記事に戻りますと、

「受験生は誘導されて“自虐史”を目にすることになる」

 自虐史。

 別の記事によると、問題文には日本が過去にやらかしたあれやこれやについても批判されていたようで。巷では、そのような観点を「自虐史観」と呼ぶようです。
 ……自虐?

 これまた当然ですが、私は他の国を支配下に置いたこともありませんし、女性をとっつかまえて軍人に奉仕させたこともありません。自国民に手榴弾渡して「なるべく大勢固まって真ん中でピンを抜け」とか言った記憶もありません。
 ぜんぶ過去のことで、他人のしたことです。
 だからって責任を感じていないわけではありませんし、起こったことを考えると胸が痛みます。が、「自分がやったことだ」という感覚はありません。当たり前です。やってないもん。
 そんな私が「過去の日本は酷かった」とか語ると、それが「自虐」になるんでしょうか。

 そもそも、なんでこれが「自虐」なんて言葉で呼ばれるようになったんでしょうか。
 ……そう考えると、とても恐ろしい結論になります。

 一連の思想が「自虐」となるからには、主語が「日本」そのものである時だけです。
 つまり、「自虐」とか言ってる人たちは、

「自分こそが『日本』である」
「自分は『日本』そのものである」

 と考えているわけです。

 どっからこんな傲慢な考えが生まれるのか、私には想像もつきませんが……そう考えると、いろいろと腑に落ちました。
 私がツイッターとかでいろいろ書き散らしていると、いちいち突っかかってくる人がいます。なんでドヤ顔で自分の意見を押しつけてくるんだろう……と、常々不思議に思っていたのですが。

「自分は『日本』である」
「お前も『日本人』なら『日本』の一部、つまりは俺の一部である」
「つまり『お前』は『俺』なのだから、お前は俺の意見に合わせろ。別の意見は認めん」

 みたいなことなんでしょうね。一応、理屈は合っています。
『日本代表』ですらないんですよね。別の意見を全く受け入れないところを見ると。

 人は人、自分は自分。人それぞれ異なる意見がある。
 そんな基本的なこともわからない人が「自虐史観」とか言っちゃうんでしょうね。
 過去の人は過去の人なんですから、意見や見解が違って当然なんですけど。その違いを認識するのが「歴史から学ぶ」ってことだと思うんですけど。……まあ、説明しても伝わらないんだろうな。「俺が日本だ」って人ですから。

 久々のブログがこんな話題だけだとアレなので、蓋かぶせときます。